事実の証明

心残りのまま永眠した 神谷 力 氏の手記。 トリカブト事件を冤罪と断定し、 判決の矛盾を鋭く指摘する。
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全文-01 (2013/01/14(月) 17:18:52)
2011.10.17

 第一章 トリカブト殺人事件を物語る

 一 極悪人の誕生

 乗客は急ぎ足でゲートへ向かっていました。私は羽田空港の長い通路をゆっくりと
歩きます。東京に戻ると空気は相変わらずよどんでいましたが、胸に思いきり吸い込
むと、親しい友人たちに囲まれたような安らぎを覚えました。
 ゲートの外は乗客とそれを迎える人で混雑しています。テレビカメラを肩にかつい
だ男が目に映り、私はぎくりとして足を止めます。マスコミの激しい攻勢から避難する
ために、札幌に住んで六ヶ月が経過しました。失業保険の受給認定のために、今朝、
札幌の自宅を出たときから尾行がついて、逮捕が間近いことを感じます。注意深くゲ
ートの外を見まわしました。ゲートを中心に扇状に人垣が広がるなかに、目付きの鋭
い男が数人私を凝視しています。私は覚悟を決め前へ歩きだしました。

 ゲートを出たところで数人の男が近づき、一人が私の名前を呼びます。返事と同時
に、二人の男が両わきから私の両肘を抱え込み走りだします。体は宙に浮き、足はむ
なしく空を切ります。一人が先に走り、人混みを強引にかき分けます。人垣の扇状の
広がりが崩れ、人々がどよめき、怒号が飛び交います。人いきれを押しのけながら勢
いよく進み、混雑を抜け出して建物の外に出ました。
痛みを伴うほどに、二人の男はますます私を抱え込みます。背を人々の視線が突
き刺します。私は身動きの取れないまま足だけをばたつかせ、引きずられるように駆
けていました。 路上の段差や舗装の色など、地面の模様が次つぎと変わるのを意
識しながら、百メートルほど駆けたのは覚えていますが、あたりの情景はほとんど目
にはいりませんでした。

 私が周囲に心が向いたのは、警視庁の護送車の車内でした。窓はカーテンが引か
れ外は見えませんが、車は首都高速道路を走っているようです。私は軽い吐きけと
目まいを感じていました。手錠なしで連行されてきた私の手首に手錠が掛けられ、
冷たい感触が全身を駆け巡ります。業務上横領および横領との逮捕状が読まれたとき、
私は殺人容疑でないことに驚きました。

「捜査一課は殺人事件が担当だと聞いてますが、横領事件の捜査もやるのですか」
「君の場合はいろいろとあるからね。ケースによっては横領の捜査もやるよ」


 逮捕の指揮をとったこの警部が、四十四日間の私の取り調べを最後まで担当しました。
質問を続けようとしたのですが、吐き気と目まいがひどくなり、私の感応は、
回りが白くぼやけてハレーションが掛かったような状態でした。

「すみません、目まいがひどいのです。机の上に顔を伏せていてよろしいでしょうか。」
「そんなにひどいのかね、やむを得ないだろう」


 車は警視庁の地下駐車場に入りました。

「着いたよ。気分はどうかね。歩けるかね」
「だいじょうぶ歩けます」


 刑事に促されて私は車を降りました。広い駐車場です。腰に捕縄を打たれ、手錠の
ため、両腕は前に揃えていなければなりません。
五一歳になる私は背筋を伸ばし姿勢を正して歩きだしました。
正面にエレベーターが大口をあけて待ってます。一九九一年六月九日、私が自由を失う日でした。

 この事件の報道は、私が生命保険の民事訴訟を取り下げた一九九〇年一〇月か
ら激しさを増します。利佐子の血液からトリカブト毒が検出される。恭子、なつ江、利
佐子、五年間に心臓不全が原因で、3人の妻が死亡しました。三人目の妻の保存
されていた血液から、トリカブト毒が検出されたという事実は、誰の脳裏にも私が極悪
人と映るのが当然でしょう。利佐子の友人たちが、私への嫌悪の気持ちにはやり、事
実の見極めもなく極悪人としてマスコミに話したことも多大に影響しています。

 世論を形成することにマスコミの力が大きいことは、さまざまの報道を目の当たりに
して納得できることです。其の報道を裏腹に伝えたとき、世論を誤った方向に導き、計
り知れない悪影響を関係者に与えてしまいます。
私の五歳年上の兄は六九歳でこの世を去りますが、生前、松山事件など多くの冤
罪事件の救援活動に奔走してきました。私は兄に真実を伝える手紙を書き救援を頼
みます。兄の返事は、「君は信じられない」という厳しい内容でした。兄などの手紙か
ら私を極悪人とするマスコミのアジテーションの激しさを知ります。極悪人という私へ
のレッテルを、兄にまで信じさせた逮捕後の報道が、いかに激しいものであったか思
い知ることができました。



全文-02 (2013/01/16(水) 06:18:58)
2011.10.19

 第二回

 利佐子と知り合う切っ掛けと、三匹の猫との反目に触れながら、二人の大阪での生
活がどのような状況であったか、私の経済状態がいかに行き詰まったかを語ります。
二人の結婚生活は大阪ではじまります。私が設立を準備していた総菜の宅配会社
「株式会社ヘルシー」の大阪における立地条件を調査するために、東京から転居した
からでした。私の住まいは、東京の池袋駅西口から徒歩で五分、二LDKのマンションで
持ち家です。大阪転居後も、東京の住まいは帰京のたびに使用するために、家財などはほ
とんどそのままにし、大阪へは利佐子の家財と利佐子の愛猫三匹を連れて移ります。

 利佐子と知り合ったのは一九八五年十一月十日です。なつ江の四十九日の法要
を済ませたその翌日、人のざわめきが恋しくなった私は、自宅から徒歩五分ほどの
西池袋のKクラブに立ち寄りました。その店で私の席を担当したのが利佐子です。翌
日、利佐子に電話で食事に誘われ、食事をしながら話しているうちに、私より十三歳
年下の三十三歳ということがわかります。客とホステスのたわいない会話でした。私
は自分の現在の立場を虚実取り混ぜて座興のつもりで話します。妻に二度死なれて
いること、経営コンサルタント業で年収一千万円であること、総菜会社の設立を準備
するために近日中に大阪に移転すること、などなど、気軽な気持ちで話しました。

 同伴して入店するため幾度か利佐子と食事をするうちに、利佐子はノルマの厳しい
ホステス業に行き詰まりを感じていると言い出します。利佐子は私のマンションに
遊びに来るようになり、大阪に一緒に転居することを承諾し、二人は婚約しました。
翌年1月、大阪に転居して、二月十日、城東区役所に婚姻届を提出します。
大阪に転居してから、利佐子は体調を崩します。大阪の土地柄に馴染めないと
いつも話すことから、三月に入り友人の多い東京へ遊びに行くことを勧めました。
それ以来、利佐子は大阪と東京を往復し、体調は完全に回復します。生命保険会社
が生命保険金の支払いを拒否したひとつの理由として、私と知り合う一年ほど前、
自律神経失調症で、病院に通院していたことを告知していない、告知義務違反を
挙げています。大阪での体調の崩れはその再発でしょう。

 あとになって公判などで知ったことですが、利佐子はマージャン中毒と言われるほ
どマージャンが好きで、クラブに勤めていたころはほとんど毎晩、店が終わるとジャン
荘で徹夜でマージャンをしていたそうです。その根城にしていたジャン荘が、池袋の自
宅から徒歩で五分ですから、東京に戻ったときの利佐子はジャン荘に入り浸っていた
のでしょう。あるクラブのバンドシンガーをしているT氏本人の公判での証言によると、
私と知り合う一年ほど前まで利佐子と同棲していたT氏が、利佐子と別れた理由は、
マージャンが原因だったと言います。利佐子のジャン荘通いは相当ひどかったようで
す。大阪では、ジャン荘に通った形跡はありません。

 利佐子が東京に戻るとき、私が同行したことはあまりありませんでした。仕事が忙
しいわけではなく、猫三匹の世話が必要で二人で二泊以上家をあけることはできませ
ん。白い雄のペルシャが一匹、黒い雌のペルシャが一匹、ヒマラヤンが一匹、雄雌は
忘れました。三匹は猫としては大型です。利佐子には親子のようになついています。
利佐子がいないとき、白い雄は私によく臭い小便を引っかけます。雄犬でもないのに
片足を上げて飛ばします。

 大阪に移り住んで一週間ほどしたとき、利佐子は猫を理由に。私と一緒に寝ていた
ベッドから、居間の和室に布団を敷いて一人だけ寝所を移しました。大阪のマンショ
ンは、六畳の和室が隣り合わせに二部屋、約八畳ののリビングキッチンを挟んで、玄
関に近い方に四畳半の洋室とトイレや風呂場があります。その洋室にベッドを入れて
いました。もう一方の和室は、三匹の猫の専用の部屋です。
夫婦のいとなみは、私が和室に通うことになります。そのとき、三匹の猫は「ウー」
とかなんとか言って私を牽制します。自分たちより格の低い者が、布団に滑り込むの
を許さないという態度です。夫婦のいとなみのときぐらいは、専用の部屋に引きこもっ
てもらいたいのですが、利佐子は常に猫を自分の周囲にはべらせていたいのです。
私と一緒に猫が布団のなかにいても意に介しません。私は落ち着きを失ってしまいます。

 利佐子が東京に行っているあいだ、大阪で私は三匹の猫を相手に格闘していました。
利佐子とではなく、私は猫と結婚したのではないかと、行為が錯綜してしまいます。
利佐子と一緒に住むようになってから、利佐子を観察する時間よりも、猫を観察する
時間が長いのです。利佐子と一緒にいるときも、無意識に猫の動きを追っています。
これでは利佐子との愛を培うことなど出来ません。
私には浪費という悪癖があります。自らの生活を調えるための浪費ではありませ
ん。女性との愛を培うための浪費でもありません。一心に女性の嬉しそうな笑顔が見
たいための浪費なのです。不正行為によって得た私の資産は、この浪費によって減
少します。

 一九八一年十二月、「株式会社ヘルシー」の設立準備を開始したときの予算は七
千万円でした。なつ江が体調を崩し、心電図に軽い異常が見られたときです。六ヶ月
後発症し入院します。のち三年三ヶ月入退院を繰り返し、一九八五年九月、帰らぬ人
となります。着付けの師範免許を持つなつ江は和服に目がなく、人間国宝が描いた
手描き友禅などの高級な和服を次つぎに購入します。私はなつ江の嬉しそうな笑顔を
見るのがこの上なく幸せで、資産が消えていくのもかまわずなつ江のやるに任せていました。
なつ江の死後、資産の整理をしてみると一億円近い資産の大部分は消えています。
なつ江の残した一千万円の生命保険金は貴重な生活資金となります。
私は東京を離れ、食文化の中心といわれる大阪で総菜会社の設立を模索して見る
ことにしました。資金は池袋の自宅マンションを売却することにします。十一月上旬、
大阪に赴き大阪での事務所兼住居とするマンションを契約し、大阪転居の準備を進
めました。

 その後利佐子と知り合い、年収一千万と話したウソが、客とホステスのたわいない
会話では済まなくなります。私は、会社設立のための経営企画書のなかで、損益につ
いて、見通しを立て、その損益計算書に、九百万円の年収を計上していましたので、
利佐子に訂正することを行いませんでした。利佐子は私の年収一千万円の話を信じ
、結婚後、この金額を生活の経済基盤とします。



全文-03 (2013/01/17(木) 21:04:28)
2011.10.24

第三回

 大阪に転居してからの経済状況はひどいものでした。池袋のマンションは利佐子が東
京の本拠地としているため売却できません。二月に池袋のマンションに限度一杯まで
抵当権をかけて借り入れを起こし、その資金でひと息つきます。
私の浪費癖は治まりません。利佐子には月五十万円の生活費を渡し、東京への往復旅費や
遊行費なども補填します。利佐子と知り合う前、住居兼事務所として借りた寝屋川市のマンション
は事務所として使用し、新たに城東区に住居としてマンションを借りました。それらの家賃も含めると、
月に百万円ほどの生活費がかかります。

 数ヶ月間の生活資金は確保してありましたが、四月にサラ金から借り入れた資金で、
利佐子の両親を関西旅行に招待し、五月に友人三人を招待して石垣島に旅行することを利佐子に約束し、
予約金を四月に旅行会社に支払います。生前、なつ江がデパートから総額約二千万円で購入した
宝石数店を、デパートの得意先係員が、九百万円ほどで転売できると言い、それをあてにした借り入れ
でした。宝石の代金は三百八十万円しか受け取れません。私の経済状態は先行きの見通しが立た
なくなります。長年東京で生活してきたわたしには大阪の食の味覚もつかめず、宅配に必要な
住宅密集地域の立地条件も東京より劣り、大阪での設立に自信を失っていました。
五月に入ると経済状態の行き詰まりは目に見えてきます。東京に戻ろう。池袋のマンションを売却し、
借入金を精算して裸になって出直すことにしました。会社に勤め収入を得ながら、総菜会社の企画に
賛同する出資者をさがすことにします。生命保険も、私の掛け捨ての定期保険四社と利佐子の
終身保険二社を解約すれば支払いの見通しはつきます。
 
 利佐子は五月一九日からの沖縄旅行を楽しみにしています。沖縄旅行から帰って
きてから、事実をそのまま話すことにしました。利佐子が私と苦労をともにしてくれる
か、愛想が尽きて私から去っていくか、利佐子の判断に任せるほかはありません。
利佐子は、トリカブト中毒で死亡したのか、死因を心筋梗塞とした当初の判断が正
しいのか、前日の行動も含めて、利佐子の死亡当日の足取りを追ってみます。
石垣島の観光旅行は四泊五日の予定でした。五月二十一日、利佐子は那覇空港
で、東京から来る友人三人と落ち合って石垣島へ向かい、私は猫の世話のため大阪
に戻ることにしていました。

 前日二人は大阪を発って、午後、那覇空港に到着します。私は沖縄を訪ねるのは
初めてですし、利佐子も那覇市内の観光は久し振りです。私たちは忙しく那覇市内の
名所旧跡を観てまわります。午後七時、有名なステーキハウスで夕食をとり、繁華街
をぶらついて早めにホテルに戻りました。午後十一時ころ部屋で寿司をつまみながら
ビールを飲み、その後、床につきます。
朝八時に起床し、洗面など済ませて九時前にレストランに行きます。朝食はバイキ
ング形式で、取ってきたのは、利佐子はパンとコーヒーでした。私はパンにスクランブ
ルエッグ、ソーセージ、野菜サラダ、それに牛乳とジュースです。
大阪では、ふだん利佐子が起きるのは正午近くです。朝食は取らず、昼過ぎにコー
ヒーとクッキーなどで軽く食事を済ませ、夕食で多めの食事を取り、テレビを見ながら
夜半に夜食を取ります。わたしとは六時間時間差のある生活です。利佐子はコーヒー
が好きで、那覇ではコーヒーを飲むためにパンを少し口にしたという程度です。
朝食を終えて部屋に戻ったのが十時前、出発の準備をしてロビーに下りたのが十
時十五分、ホテルを出たのは十時三十分ころでした。ホテルからタクシーに乗り、那
覇空港に着いたのが十時五十分過ぎです。

 友人三人を乗せた羽田空港からの便が、那覇空港に到着する予定時刻は午前十
一時二十分でした。到着が早まる可能性もあり、友人たちと落ち合う場所、石垣島へ
の乗り継ぎ客の待合所の前で待機します。私たちは乗り継ぎ客ではないので、待合
所には入れません。ガラス越しに外から中を注視していました。
十一時三十分を過ぎても、友人三人は待合所に現れません。南西航空の石垣島
空港行きの出発カウンターは、この待合所から、二キロほど離れた場所にあると聞い
ていましたので慌てました。石垣空港行きの出発時刻は午後時零時です。利佐子を
その場に残して、私は全日空のカウンターに問い合わせに行きました。到着が遅れて
いるとのことです。利佐子は戻り、利佐子と一緒にいらいらしながら、まばたきも忘れ
て探します。十一時四十分ごろ場内放送で利佐子に呼び出しが掛かります。全日空
のカウンターに行った利佐子が、係員に伴われて戻ってきました。歩きながら利佐子
に事情を訊き、係員に連絡用の車への同乗を頼みますが、乗客でないと断られます。
利佐子は待合所を通りエプロンに出ていきました。

 私はタクシーで南西航空のターミナルビルに向かいます。タクシーで五分くらいで
す。ターミナルにわたしが着いたとき、利佐子は搭乗手続きを済ませて、搭乗口にむ
かう出口にいました。私は利佐子や友人たちと、ゲート越しに口早く言葉を交わしま
す。利佐子は、航空機のタラップを上がったところで手を振り、搭乗口に消えました。
それが元気な利佐子を見た最後です。

 私は元のターミナルビルまで、三十分ほどかけてぶらぶら歩いて帰りました。
大阪行きの便まで二時間ほど時間があり、食事をしてターミナルビルを散策します。
ロビーで居眠りをしていると、午後二時過ぎ場内放送で呼び出しがあり、利佐子の発病を知ります。
南西航空のターミナルビルに行きましたが、二時間ほど待たされます。私が石垣空港に着いたのは
午後五時過ぎでした。そのときすでに、利佐子は死亡していました。

 私と別れてからの利佐子の状態、警視庁の取り調べと、判決で知り得たことを、時
間を追って記述します。航空機に搭乗した利佐子は、搭乗手続きの遅れで、友人たちの十一列前
の席に座ります。航空機は午後零時五分に出発しました。安全ベルトを外しての飛行は二十分
くらいで、飲み物のサービスはなく、客の求めがあれば応じる態勢でした。石垣空に着いたのは
午後零時五十三分です。利佐子は到着後友人とベンチに腰掛けて喫煙しますが、トイレにも行かず
飲食もしていません。常に友人三人と一緒です。午後一時ころ一台のタクシーに四人が一緒に乗り、
宿泊先のホテルに向かいました。

全文-04 (2013/01/19(土) 08:47:21)
2011.10.26

第四回

 一時十五分ホテルに到着します。そのときに大量の汗をかいていたとの友人の証
言があります。ホテルのチェックインの手続きは、四人を代表して利佐子が行いまし
た。利佐子は書類にきちんと記入し、はきはきした態度で、何の異常も認められなか
ったと、応対したホテルの係員は証言しています。友人たちも同じ証言です。
ホテルはコッテージ方式で、客室はそれぞれ別棟になっています。チェックインを終
えてカウンターのある建物を出て、小道を客室に向かって歩いている途中、午後一時
二十七分、客室の手前で突然吐き気を訴えます。客室に駆け込むなり嘔吐しますが
、胃液様の物を若干吐いただけです。その後、ベッドに横になり、冷や汗、嘔吐、手の
痺れ等を訴え、症状は急激に悪化します。

 午後二時三分、救急車でホテルを出ます。救急車の車内では意識も晴明で、救急
隊員の質問に、「変わった物は別に食べていない。朝食でコーヒーとパンを少し食べ
ただけ」などと、はっきりした口調で答えています。
午後二時十分ころ救急車内で、突然、呼吸と心臓が停止します。二時十二分ころ
心肺停止のまま病院に到着し、蘇生のための治療を受けますが、一度も蘇生するこ
となく午後三時4分。死亡が確認されます。旅先での急死のため、翌日行政解剖が行われ、
死体検案書に死因は心筋梗塞と記載されました。

 利佐子の保存された血液からトリカブト毒が検出されたということが、なにを物語るか。
血液の検出から四年後に逮捕されますが、なぜ四年のあそびがあったのでしょう。
利佐子の死から逮捕までの経過をたどります。

 生前、利佐子は、数人の友人に高額な生命保険の加入を話していました。池袋の
自宅での通夜の日、利佐子の友人たちに私は激しく追求されます。一部のマスコミ関
係者が、取材のためにマンションの下で控えていると聞きました。告別式は、マスコミ
関係者が出入りするなかで葬儀場で行われます。そのとき利佐子の友人の撮った私
の顔写真が、二ヶ月後、目隠しなどのない素顔のまま、実名を明らかにした記事とと
もに、後に廃刊となる写真週刊誌に掲載されます。

 告別式から一ヶ月ほど経ったある日、引っ越し準備中の大阪のマンションに、利佐
子の友人から依頼されたと言って、スポーツ系の新聞社のO記者が、取材のために
私を訪ねてきます。私は質問にていねいに答えます。七月だったと記憶してますが、
その日刊紙に、私を中傷する記事が連載されます。O記者は、一審判決が出たあと
で、拘置所在住の私に対して、勝利宣言のような追い討ちの手紙をよこします。連載
した記事に、よほど自信があったのでしょう。

 写真週刊誌と日刊紙の、殺人疑惑を全面に掲げた報道以来、外出のときの電車内
に、私の事件を記事にしたことを伝える、週刊誌の宙吊り広告を見かけるようになりま
す。私はすぐ目をそらしますが、また目線を向けてしまいます。一部のマスコミによる
私の事件の報道は、利佐子の保存血液から、トリカブト毒が検出されたとの証言が
あるまでの約四年間、散発的ですが途絶えずに続きました。

 利佐子の葬儀を終えて七か月後、一九八六年一二月、私は新聞広告の求人募集
欄を見て応募し、採用されて会社勤めを始めます。会社で経理部に所属した私は、仕
事に熱中します。会社は株式を店頭登録によって一般公開し、米国と台湾に子会社
を持つ従業員六百人ほど、年間売上約一〇〇億円の製造販売会社です。企業会計
人として腕を振るうには、私にとって最適の企業でした。私の事件についても、会社の
トップに正直に話し、仕事をおろそかにしなければそれでいい、との了解を得ます。
海外の二つの子会社との連結決算は、私の未知の分野ですが、それだけに強い興
味がわき、精力的に勉強しました。入社以来、日夜を分かたず奮闘し、総菜会社設立
の望みは、遠い存在となります。
 
 私の年収は、残業手当なども含めると七百万円ほどでした。他の借金は全て清算
しましたが、親族に残している約五百万円の借入金を返済するために、家計を月十
万円程度に切りつめて預金をしました。住まいは、世話になっていた横浜の両親のも
とから、就職後すぐに、会社のある東京都足立区に、家賃四万円のアパートを借りて
引っ越します。質素な生活を一年ほど続けて返済資金が貯まると、困った習癖が芽を
出しました。同僚と地元のミニクラブに飲みに行ったことが切っ掛けとなり、ふたたび
銀座などに飲みに行くようになります。

 入社して一年三か月後の一九八八年三月、前任者の常務取締役部長が健康上の
理由で退職し、都市銀行の支店長を定年退職して就任していた経理部長も、高齢で
嘱託となっていたために、私が総務部長兼経理部長に抜擢され、事務部門の統括を
一手に引き受けることになりました。
一日四,五時間の睡眠時間で、私は仕事をこなしました。旧態依然とした経理シス
テムを、新しいシステムに組み替えます。二年ほど前に開業した台湾子会社の操業
が本格的となり、海外連結決算を有価証券報告書に記載して、大蔵省に報告するこ
とが義務となると、そのシステム作りに苦心します。会計監査に来る公認会計士の指
導を受けながらの海外連結決算のシステム作りは、産業界でも未知の問題が多く、
一生をかける仕事として充分に価値があるものでした。決算期には、米国、台湾と海
外子会社への出張を繰り返しながら、海外連結決算のコンピューターによるシステム
化を図り、処理基準の作成に熱中します。この分野の勉学に身を入れ、わずかしかな
い専門書を読みあさりますが、体系的な理論書はなく、自ら理論の体系化を進めるな
ど、ゆくゆくは、この道の専門家となることを目標とします。

 部長就任当時は、総菜会社の設立に、わずかですがまだ色気がありました。その
色気も、海外連結決算の魅力にはとても及びません。すでに病人食の宅配業も現れ
、コンビニエンスストアが整備されるなど、食品業界は日進月歩です。部長就任後二
年くらいのあいだに、総菜会社へのこだわりは完全に消えてしまいます。

 企業会計人としては経済の感覚は優れているはずなのですが、なぜか、私生活で
は経済的な感覚は希薄になります。将来の生活を支えるために、職権を利用して不
正で得た資金でしたが、衝動的に浪費の悪癖が頭をもたげ、女性の嬉しそうな顔が
見たさに、またもや銀座などを飲み歩き、浪費を重ねます会社の椅子に、尻が張り付
くほど忙しいのですが、睡眠の時間を削ってまで、無意義な時間を作ります。不正で
得た資金は手元にとどまらず、銀座のクラブなどをはじめとする飲食店や高級ブティ
ック、それに、心にかなう女性のふところを目指して飛んでいきました。

全文-05 (2013/01/20(日) 10:00:49)
2011.10.31

全文-5

 会社勤めのあいだ、逮捕されることは脳裏をかすめることはありませんでした。利
佐子が病死でなく中毒死であるとすれば、私が毒物を利佐子に服用させるには、友
人たちと落ち合う午前十一時二十分以前に済ませておかなければなりません。航空
機が延着したのは予想外であって、定刻に到着することを前提として行動していたか
らです。利佐子の保存血液からトリカブト毒が検出されたと証言されるまで、殺人疑惑
と騒がれても、私には毒物の特定はできませんでした。服用してから何の異常も示さ
ず、約二時間後に突然吐き気をもよおして、発症するような毒物の存在は、私の知識
では皆無です。この疑問には、殺人疑惑を騒いだマスコミも答えていません。私が逮
捕されることはないと確信していたのは、これが原因です。

 一九八九年夏ころ、NHKのA記者が取材に訪れ、「利佐子の血液からアコニチンが検出された」
と言って私の感想を引き出そうとします。私はアコニチンとは何かを知らず、答えませんでした。
書店などで調べて、トリカブトの毒素の一成分で、即効性があることを知ります。
速効性があるということは、服用してから約二時間経過してから発症するなどということ
はあり得ません。私がトリカブトを栽培していたことを、どこかで聞き込んで、私の反応を見る
ためにA記者は話したのだと推測しました。服用から発症まで約二時間の絡むような話に、
私は拘泥することはありませんでした。

 利佐子の保存血液からトリカブト毒が検出されたという証言は、私にショックを与え
ましたが、書物で読んだ速効性があるという記述は信憑性があり、私の動揺はすぐに
治まりました。利佐子の死から、証言があった一九九〇年一〇月まで四年五ヶ月が
経過しています。血液の鑑定は、利佐子が死亡してから数ヶ月あとに実施されたと判
断しますと、それから約四年逮捕されないということは、トリカブト毒の速効性の問題
が解決できないからと見るのが順当です。

 保険金支払い請求の民事訴訟は、保険金が欲しかったことも事実ですが、もうひと
つ、殺人疑惑は真実の話ではなく、私は潔白であると、証明することが目的でもあり
ました。保存血液からトリカブト毒が検出されたと証言があったとき、私は身に覚えが
ないことから、今後も充分に争えると断定します。
私はこの民事訴訟で、重大な過ちを犯していました。かって不正行為で得た資金
を、経営コンサルタント業で得た収入だと、民事訴訟を担当した弁護士さんにウソをつ
いていたのです。この収入が民事訴訟の一つの争点でした。弁護士さんから訴訟を
継続する条件として、コンサルト先の会社の確認がぜひ必要だと求めれます。
実際には関与先がなく 、不正行為を打ち明けることもできず、私は弁護士さんの信
頼を失いました。信頼を失っては民事訴訟を継続することはできません。十一月、私
は訴訟を取り下げました。

 それからは、マスコミの取材攻勢が激しくなります。危険水域を大幅に超えた河の
堤防が決壊したごとく、各社の報道が世論を呑み込んでいきました。週刊誌は言うに
及ばず、テレビも連日のように私の話題をワイドショーなどで取り上げます。私が八年
前、自宅のベランダで、栽培するために購入したトリカブトの鉢植えでしたが、それを
販売した店が判明したことも加わって、報道合戦は激しさを増し、極悪人としての私の
レッテルは世評に定着します。十一月中旬、ある新聞社の記者が取材に訪れます。
その記者が、「トリカブト毒は速効性があり、服用して五分もすると発症する」
と教えてくれました。速効性に、時間的裏付けが与えられたのです。時間的裏付けが
与えられたのです。五分が若干変動するとしても、服用からは発症まで二時間近く掛
かることは、常識的に考えられません。逮捕されることはないという私の志向は強くな
ります。

 会社などで世間のうわさを耳にしていると、裁判の第一審はマスコミによってはじめ
られたという雰囲気です。あるテレビ局などは、カプセルにグリセリンを塗って、溶解
時間を計る実験をして見せてくれました。マスコミは私への取材のため、会社へ際限
なく押しかけてきます。私は十二月に入り、会社を依願退職しました。
マスコミとの接触を避けるために、札幌に転居してからの私の生活は、持ち込んだ
パソコンを使用しての海外連結決算のシステム作りと、税理士試験の受験勉強に明
け暮れる毎日でした。札幌に転居して新年を迎えたときの手持資金は、百万円を切っ
ていました。生活費の予算は月十万円です。家賃や光熱費、雑費および書籍代など
を差し引くと、食費は月二万円ほどです。総菜会社設立準備のときの料理実習の経
験を生かして、食材は安物を使いますが、工夫をして内容を充実させます。ですが、
食べるのは私ひとり、それが寂しいことでした。

 三月から失業保険金の給付を受けます。就職は無理なので、二年間、この給付金
と手持資金を合わせて生活することにします。その間に税理士資格が取れない場合
は、アルバイトで収入を確保して受験勉強を続けることにしました。
私はこの経済的なつましさと、心の豊かさが同居した生活が私本来の生き方であるこ
とに気がつきます。三十二歳までの生活は、このような日々でした。その後の生活の
破廉恥さは、我ながらあきれ果ててしまいます。

 札幌に転居して初めての尾行に、税理士試験の受験申し込みを済ませて、札幌国
税局を出て北一条通りを、西三丁目の交差点の方向へ歩いていたときです。札幌に
も遅い春が訪れ、桜のつぼみも膨らみはじめていました。不審な男が私の十メートル
ほど後ろをつけてきます。私は歩みを速くしたり遅くしたりして、男との間隔を測ります
が、男の歩むリズムも同じです。この通りには、中央警察署もあり、民放テレビ局の社
屋もあります。友人の話で、警察には札幌の自宅の所在が知れていることはわかっ
ていました。尾行はこの通りからはじまっています。私は、マスコミ関係者と見当をつ
けて、まくことにしました。若いころ、革新政党で活動していた私は、尾行者をまく要領
は心得ています。距離がひらくように仕向けて、アマをまくのは簡単でした。札幌では
よく出歩きましたが、マスコミにつかまって取材を受けたことは一度もありません。
六月九日の逮捕の日は、二人の刑事が自宅からつけてきました。途中で、尾行に
私が気がついたとわかると、刑事は、千歳空港の出発ロビーまで、牽引車に引かれ
るようについてきます。厚かましさにかけては、さすがにプロは違います。連絡を受け
た警部が、羽田空港で私を待ち受けていました。

 服用から発症まで約二時間という疑問を持ったままでの逮捕に、私は釈然としませ
ん。横領容疑の取り調べが終わり、殺人容疑の取り調べがはじまると、警部は私に、
「五年も逮捕が遅れた原因は、服用から発症まで二時間近く経過している問題が、解
決できなかったからではないのですか」と訊いてみます。警部は、「捜査にも手順がある」と、
歯切れが悪い言い方をします。殺人容疑で再逮捕されてから、その拘留期限の切れるまでの
二十二日間、執拗にこの問題を問いただしますが、それを是とするような答えは得られず、
疑問が募るばかりでした。私はこの問題が、この事件の核心となる事柄であり、
裁判でも最大の争点になると確信しました。


全文-06 (2013/01/23(水) 20:04:28)
2011.11.15

全文-6

二 有罪と定められたレールに乗って走っている気分

 暑い、じっとしていても汗が噴き出してきます。私が東京拘置所に収容されたのは、
一九九一年七月二五日です。
夜中に、突然、黒の礼服を着た訪問者が現れます。孤独な私の慰問のためか?それ
にしては、小物を収める棚の近辺を漁っています。私はそっと起きると、ほうきを持っ
て身構えます。出て来た!私は思いきりほうきで叩きます。ゴキブリ君は、布団のヘ
リを伝って一目散に逃げていきました。翌朝、ゴキブリ君の訪門口を探しますが、
コンクリート造りとはいえ、建物が何しろ古い。三畳に、洋式便器と流し台の設置された
一畳ほどの床、流し台の下などは、板が腐り穴だらけです。
毎夜訪ねてきます。二センチほどの黒い光沢のある平べったく横にずんぐりしたやつ
です。夜中でも本が読める程度に明るいので、動きはよくわかります。話し相手のい
ない私は、極悪人扱いされて追いまわされた、やるせない気持ちを、ゴキブリ君にぶ
つけます。ひとわたり棚を探索してから帰途につくのを見計らって、「君も極悪人として
追いまわされているだろう、似た者どうし、さあ勝負」 とつぶやき、ほうきを持って私は
一騎打ちをはじめます。私の勝つ確率は四日に一回くらい、私が勝った次の夜には新手
が一匹繰り出してきます。ひと夜に二匹訪ねてくることはありません。拘置所だからで
しょうか、ゴキブリ君の世界はよく統制が取れているのです。夏のあいだ、ほとんど毎
夜、この戦いを繰り返しました。

 手錠の感触から離れて、すでに三か月が過ぎています。拘置所では、日常生活は
もちろん、所内を移動するときも手錠とは無縁でした。第一回公判に臨むため手首に
手錠がかけられたとき、「ああ、手錠か」 という程度の感触でしたが、公判の回数を
重ねるに従って、手錠の感触は、冷たく心に食い込んできます。
第一回公判に臨んだ私は、気負いだけが心を支配していました手錠が外され、被告人が
控える個室で、開廷を待つ一時間ほどのあいだ、備品の雑誌に目を落としますが、
字面を追うだけで内容は頭に入りません。またか、またか、と三度小用に立ちます。
午前十時、手錠を掛けて入廷し被告人席に着席したときは気持ちは落ち着いていました。
裁判官などはすでに着席しています。正面は一段高くなり三名の裁判官、
一段下がった右側が弁護人席、左側が検察官席です。被告人は傍聴席を背にして、
二名の看守と共に弁護人席に近い長椅子に座ります。前には長机が置いてありました。
手錠が外され、傍聴人が入廷し、裁判が開始されます。私は振り向いて傍聴席を
見る余裕が出ていました。傍聴席はほぼ満席です。人定質問で裁判長の前の被尋問
席に立った私は、質問を受けながら、裁判官の表情の動きを捉えようと努力します。
三名の裁判官も、マスコミの報道に無縁ではないのです。私に対してどのような心証
を得ているのか気がかりです。人定質問が終わり被告人席に戻ってからも、三名の
裁判官の表情を見比べることに、公判が終わるまで、全神経が集中してしまいました。

 検察官の起訴状朗読がはじまると、三名の裁判官は、わずかにうなずきながら聞い
ているように私には感じられます。うなずくとは、合意を表す合図です。午前十時から、
昼食を挟んで、午後三時三十分までの四時間三十分ほどの公判中、検察官と弁護
人がそれぞれ陳述します。それを受け止める裁判官の反応の表情から有罪の心証
に傾いていると読み取りました。気のせいだろうか? 私は首をかしげてつぶやきます。
裁判官がそのような先入観を持って、第一回公判に臨むことはないのかもしれません。

 この杞憂は、逮捕後の取り調べで、カプセルの服用から発症まで約二時間の問
題に、答えが得られなかったことの影響と、私には血液採取後のトリカブト毒の混入
を立証することが不可能で、利佐子の保存血液からトリカブト毒が検出された事実が
私の脳裏で葛藤し心を圧迫していたからです。この圧迫感は、公判が進行するにつ
れて杞憂でないことが明らかになります。
私は冒頭陳述の口述ように文書を用意していましたが、その機会がなく、文書を陳
述書として提出して第一回公判は終わりました。陳述書には、血液からの検出の問
題には一切触れてません。

全文-07 (2013/01/25(金) 06:03:06)
07-2011.11.17

全文-07

 第二回、第三回公判において、利佐子を解剖し血液を保管した筑波大学O助教授
の証人尋問が行われました。血液の鑑定はO助教授が行ったのではなく、東北大学
のM教授で、O助教授はその鑑定報告書にもとづく証言でした。
O助教授の証言を簡潔に示します。解剖直後は、病死だろうという気持ちは変わり
ありません。利佐子の死亡から10日ほどたった6月初め、写真週刊誌の記者から、
利佐子が高額の生命保険に加入していると聞き、死因として薬物の可能性も充分に
検討しなければと思います。助教授は、独りで考えていても、らちが明かないと、
7月10日、研究室の先生方四人とその他研究員六、七名を集めて検討会を行います。
多くの薬物をリストアップした中に、誰が言い出したか記憶にないとのことですが、
トリカブト毒もリストに入りました。
一回だけ行われた検討会でトリカブト毒が浮かび上がり、O助教授は九月末ぐらい
に東北大学からトリカブトを取り寄せ、根を薄く切ってシャーレの中に並べてエタノー
ルを注ぎ2、3週間放置します。翌年一月二十日ころ、その抽出液を犬になめさせ、中
毒を起こした犬の血液を東北大学M教授に送りました。鑑定の結果、血液からトリカ
ブト毒が検出されます。

 第四回、第五回公判において、利佐子の保存血液の鑑定を検察側に依頼されて、
フグ毒を検出した東京大学N講師の証人尋問がありました。
利佐子の死亡から約五年、逮捕から一か月後の一九九一年七月、鑑定のため、試
験管に入った血液を封筒に入れて東京大学に警察官が持ち込みます。N講師はそれ
から鑑定をはじめ、血液からフグ毒を検出し定量も行っています。第四回公判はこの
年の一二月ですが、鑑定の進め方、定量分析の方法、致死量を含む草フグの肝臓の
量、肝臓からメタノールを溶媒として抽出・濃縮した物質がどろどろ状になることを明
らかにし、どろどろ状物質を更に精製するには、特殊な機器と薬品、それに高度な技
術が必要だと証言します。
両毒の鑑定内容の四回の公判を経過して、私の気持ちはしだいに追い詰められて
いきます。その後の公判は、逮捕されて取り調べを受けたとき、私が無実を明らかに
したいために供述した、六種類の購入品の購入理由を、検察官は全て裏返しにして、
極悪人としての私の立場を固めようとした公判でした。

 トリカブトの購入は、福島県白川郡所在の山野草販売店野天著を承認として召喚
し、購入の日と数量について、仕入れ伝票から、一九八一年十一月ころから翌年九月
ころまでの間、四,五回にわたり、鉢植えのトリカブトを合計六十二鉢購入したと証
言させます。実際には、私は一九八二年六月下旬から同年九月上旬の間に三回五十二鉢
を購入しています。証言と実際の相違である、一九八一年一一月ころの購入が、なつ江
の発症にかかわる、検察側の立証に重要な役割を果たしていることに、控訴審の準備中
に私は気がつきます。

 クサフグの購入は、神奈川県横須賀市で漁業を営むM氏と、そこで従事している人
を、証人として召喚し、購入の日と数量について、一九八四年三月から翌一九八五年
秋ころまでの間、6、7回にわたり、約千二百匹を購入したとの証言を得ます。
実際には、私は一九八四年四月から翌年六月までの間、六回にわたり、千八十匹
ほど購入します。
証言と実際の相違である一九八五年秋ころは、後に記述するように、この時期マウ
スは購入しておらず、検察官が主張するマウスによるフグ毒の効能実験はできない
のです。この証言を検察側は是認しますが、主張に一貫性がないと言えます。

 カプセルの購入は、東京都荒川区所在の薬H店の店員をしょうにんとして召喚し、
風邪薬のフルカントジン、強壮剤のレバゴルトV、鎮痙剤のパボランカプセル、のカプ
セル入りの薬を週に一、二回の割合で購入していたこと、一九八五年九月ころには、
製造中止となったパボランカプセルの在庫品の全部七、八個をまとめて購入したとの
証言を得ます。
実際には、薬H店の関連会社が製造したと店員に勧められて、フルカントジンを
一、二回、同じ理由で勧められたレバゴルトVを、私が試用してみようと数か月間購入
します。パボランカプセルは、なつ江が腹痛のときの常備薬として年に四箱ほど買い
置きし製造中止と聞いて在庫品を七箱ないし八箱を購入します。
パボランカプセルは一箱十二カプセル入りですが、検察官は利佐子がトリカブト毒と
フグ毒をカプセルで服用したことを強調したいために、カプセルの購入を印象づけよう
としたのです。利佐子が服用したとされるカプセルは一個です。それが目的なら、なぜ
百個近いカプセルを購入する必要があるのでしょうか。

 メタノールとエタノールの購入については、逮捕後の取り調べで、消毒用のエタノー
ルの話はしますが、私がどのように供述したか記憶が定かでありませんので、実際の
購入について記述します。
消毒用にエタノールを薬H店から購入しますが、早朝で薬H店が開店前のときは、
斜め向かいのJ薬局から購入しました。ところが間違えて、J薬局から購入したのはメタノールでした。
購入した日と数量は、一九八二年七月から一九八五年九月までの三年二か月の間に、月五本から六本、
五〇〇ミリリットル入り容器で一九五本ないし二百三十四本購入します。
検察官の主張は、私がアルコールを使用して、トリカブトの塊根とクサフグの肝臓から毒を抽出した
ということなので、消毒用にメタノールを誤って購入したことは、大変不利に働きます。


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