事実の証明

心残りのまま永眠した 神谷 力 氏の手記。 トリカブト事件を冤罪と断定し、 判決の矛盾を鋭く指摘する。
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全文-31 (2013/02/18(月) 22:46:40)
2012.04.02

 全文-31
 
  『仕組まれた無期懲役』 で記述した、事件の状況証拠とされる問題と、原審
の判決の矛盾点については、本書の実際の説明が適切になされていると思いま
すので、本書から抜粋して、当文書では、第三章の、この一をのぞく部分と、第四
章にて記載します。その抜粋は、本書の記述のままとしますので、「です」 「ます」
調で文を組んでありませんので御了承下さい。なお、当文書では、第三章の五に
て、「です」 「ます」 調で、必要とする説明を加えました。
私が企画し設立準備をした会社について、本書では「食品会社」 としています
が、当文書では業種を鮮明にするため「惣菜会社」 と改めています。また、本書
から抜粋して記載した内容や文章と、当文書のそれとが重複する部分があります
が、三人の妻の生活状況も描かれていることから、重複部分を省略することはせ
ず、本書の見出しの記述にそって転記しました。
 
  二 七品目を購入した背景の実際
 
 31-1 引用文 P114-P118 企画の誕生とエバポレーター
 
企画の誕生とエパポレーター
 
共稼ぎの夫婦にとってなにが大変かというと、朝晩の食事の用意だ。最初の妻
恭子の作るミートソースの味は絶品だった。このミートソースを使ったスパゲッティ
は、イタリアンレストランでも味わったことがないほどうまい。だがそれは、恭子が仕
事を辞めて専業主婦になってからの話だ。共稼ぎのあいだは、インスタントラーメン
以外に作れないのではないかと思われるほどの状態だった。恭子と知り合ったころ、
私は料理には自信があった。少年のころ、夜遅く仕事か
ら帰り台所で食事を作る実母
にすがり付くようにしていた私は、しらずしらずに料理
に興味を覚えた。

 高校生のときには、趣味として台所に立つことが多くなった。東京
に出て独立してからの貧しい青年時代には、外食を避け、料理の本を買い込んで
安い料理で豊かな食生活を目指して自炊し奮闘する。私が作った味のよい煮しめ
に恭子は惹かれたのか、革新政党の地域活動の合
間を見ては東京都北区の私の
アパートに来て食事をすることが多くなる。私たちの
交際期間は一年ほどだった。
恭子は埼玉県大宮市の日赤病院に勤めていたが、
準夜勤務を終えた恭子を私は
夜中に60CC の単車で迎えに行く。大宮から北区ま
ではかなりの距離だが、単車で
ドライブしながらの話し合いは楽しい。私のアパート
に帰り着いて、質素だが心を込めて
作った私の手料理を二人で食べる。結婚する
までは恭子が私のアパートに泊まるよう
なことはなく、夜食のあとで私は近所のア
パートまで恭子を送っていく。 

 
結婚してからもこのドライブは続く。住まいは恭子が住んでいたアパートに私が
移り住んだ。六畳一間で台所もトイレも共同使用のアパートで、歩くと床がギシギシ
ときしむようなぼろ家だったが、家賃が安く子供ができても住んでいられるのが気に
入っていた。その後、別のアパートを経て足立区の2LDKの公団住宅に入居したと
きには、極楽に移り住んだような心持ちになった。恭子は勤務を別の病院に替わっ
たが、日勤、夜勤、準夜勤と相変わらず変則的な勤務で、食事の用意はほとんど
私の日課となる。台所に立つことは苦にならない私だったが、食材の購入がきつい。
民主的出版物を販売する書店に勤務していた私も、それほど時聞に余裕はなか
った。勤務を終えてからの食材の購入は頭痛の種となる。恭子と協力しながらなん
とかこなしていくが、そのときいつも二人の話題になったのが、食材を定期的に自
宅に届けてくれる店はないものかということだった。この思いが、先々、食材を宅配
する食品会社の企画につながっていく。

 一九七九年ころには、P社での六年聞に及ぶ業務経験によって企業経営への自
信もつき、いよいよ食品会社の企画をはじめた。私の住んでいた足立区の公団住
宅や、その後移り住んだ埼玉県草加市のマンション近辺は集合住宅の密集地帯
だ。集合住宅は宅配にも便利だし、共稼ぎの夫婦も多い。食品会社を設立する場
所は草加市内と意を定める。何月ころかは記憶がはっきりしないが、同七九年、会社
の取引銀行との関係で
私が口座を開設していたF銀行室町支店の帰り道、神田駅
近くで理化学材料を販
売しているT株式会社のショーウインドーにエパポレーターを
見つける。通りすがり
に何度か見ているうちに興味を覚えて居の人からカタログを貰い、
使用目的や使
用方法を理解した上で購入する。

 
私は長年自宅で料理をしているあいだに、関東風の濃い味付けと、関西風の薄
い味付けでは、関西風の味付けが塩分は少ないと一般に言われていることに疑問
を感じていた。関西に行ってうどん類を食べると、確かに醤油の味は薄いが、東京
よりも塩辛く感じられるのだ。そのことは恭子などともよく話題にしていた。塩味だけ
なら食塩を湯に溶かしてみればわかるが、醤油が混ざるとわかりにくい

だしの取り方、濃口醤油、薄口醤油の使い方でも塩分は変わる。関東風と関西
風に
味付けをしたつゆを、エパポレーターで濃縮して味わってみたら面白い。
また、
濃口醤油と薄口醤油を濃縮したらどちらが塩分が強いか。さらに、産地別の
赤ワイ
ンや白ワインを濃縮したらどんな味になるか、など、そのような興味に誘われて、
もちゃを買うようなつもりでエパポレlターを購入した。自宅に持ち帰り部品を点検した
ところ、水道の蛇口とエパポレーターをつなぐゴ
ムホースは別途購入する必要がある
ことがわかり、組み立て方も意外と複雑だ。
ゴムホースを購入してから組み立てて使用
してみようと思い、箱に収めたまましま
い込む。
その後、仕事の忙しさに加えて恭子がたびたび心臓発作を起こして入院するな
ど、食品会社のことはしばらく頭から離れ、エパポレーターへの興味も薄れて使用する
ことなく過ぎていく。

 
翌一九八O年二月、台東区根岸に3LDKのマンションUNを購入して草加から引っ
越しをする。このころ、会社にある事件が持ち上がりその処理をしているうちに会社
勤めが無性に嫌になる。不正行為で資金も準備できたことでもあり、退職して食品
会社の設立準備に専念する決心をして、その事件の処理が終わった同年十二月、
P社を退職した。退職後、私たち夫婦は二人のかねてからの念願だった旅行に熱中する。
看護婦
は辞めていたが、恭子は自らの体調を診ることに自信があったようで、発作は治ま
っているという恭子の意向をくんで同年十二月にハワイへ、翌年五月にヨーロッパ
五カ国を旅行し、その間、月に一、二度国内を旅行する。そのために食品会社の企画と
設立準備はそれほど進まず、エパポレーターはしまい込んだままだった。
一九八一年
七月十九日午後五時ころ、恭子は発作を起こして入院し、翌二十日
午前四時ころ
心筋梗塞で死亡する。私は虚脱状態に陥り、食品会社の企画も投げ
出してしまう。

 
同年十月、恭子との思い出の深い根岸のマンションに住み続けることが苦痛で
同マンションを売却することにして、近所のコーポTを賃借して移り住む。コーポTは
2Kと狭く、引っ越しに際して多くの家具を処分する。このとき、エパポレーターも、も
う使用することもないと思い廃棄してしまう。その後、なつ江との交際が再開するに
及んで、ふたたび食品会社の設立に情熱が湧き、同年十二月ころより企画と設立
準備を開始する。まず経営企画書の作成を中心にして、会社の設立場所である草
加市近辺の下調べと、顧客獲得のための集合住宅の立地状況を見て歩いた。
一九八二年五月には最初の経営企画書も完成し、その中で具体化していた顧
客に月一回配布する「ヘルシー月報」の話題集めのためにエパポレーターを利用
することを思いつく。エパポレーターでどのような話題が提供できるかは、第一回目
購入のときの利用方法とほぼ同じだ。五月下旬にT株式会社に注文し、六月七日
に第二回目を購入しコーポTに持ち帰る。
購入してすぐにエパポレーターを組み立ててみるが、組み立てている途中で薬
品を投入する細いガラス管(試料導入管)を破損する。T株式会社に問い合わせた
ところ、ガラスセットだけ購入できるとのことで注文し、ガラスセット一式は破損した
試料導入管とともに破棄する。
 
31-2  P118-P125 ヤマトリカブトの栽培と生花
 
ヤマトリカブトの栽培と生花
 
同月十六日、なつ江は発病し虎の門病院に第一回目の入院をする。完全一房
室ブロックが出現するが、十九日には一度の房室ブロックまで回復し、七月十一日
に退院する。私は日に一度なつ江を見舞っていたが、症状が安定した六月下旬、
気晴らしの
ドライブがてら、食品会社の食材として関心を高めていた高原野菜の
生育状態を
見に、日帰りで栃木県那須高原に出かけた。その帰り道、那須高原から
岳温泉の
近所に出てしまい、そこから東北自動車道の白河インターに向かう道筋で
渓谷美
をアピールする立て看板を見る。五分ほど道をそれで坂を下ると美しい渓谷が
あり
、そこに食堂を兼ねた山野草販売店Kがあった。
私は店内に入り展示されている山野草を見ていると、小さな板にトリカブトと記入
した鉢植えが二鉢展示されている。鉢の植物は、茎が五0センチほどの高さで青々
とした葉を付けていた。私は店の主人からヤマトリカブトであることを聞いてすぐに
購入し、さらに多めに入荷できるかと聞くと、一週間ほどで入荷するとの答えで私
は予約して帰る。その夜、なつ江を見舞いに行きヤマトリカブトが購入できたことを
話すとなつ江は喜び、ベランダで栽培してみることを二人で確認した。
 
 
話は四年前にさかのぼるが、一九七八年の夏か秋、私はなつ江と千代田区神
保町で待ち合わせて昼食を取る。なつ江は神田にある簿記学校に通い、私の勤め
ていたP社も神田にあった。食事のあと神保町の規模の大きなT花店に立ち寄る。
その店でなつ江はハナトリカブトの切り花を見つけて購入する。なつ江は、当時、
茶道教室に通うとともに生花を習っていた。珍しい花だから生花の材料にするのだ
と言う。その数日後、なつ江のところを訪ねた私に、ヤマトリカブトの花は淡い紫色
でハナトリカブトより美しいと言い、山草図鑑でヤマトリカブトを示して生花に使うことを
希望する。それから二人は、山野草庖を見るとヤマトリカブトを探すようになる。
話は戻り、山野草販売店Kで予約した一週間ほどのちの七月五日早朝、私はヤ
マトリカブトを受け取りに行く。ところが、休業日で店は閉じている。店の前で思案に
暮れていると、仙台に遊びに行くという家族連れの店の主人が車で通りかかり、二
五鉢の鉢植えを購入することができた持ち帰った鉢植えを池袋のマンションSTの
ベランダに並べてみると、一・五坪ほ
どのベランダにはまだ鉢植えを置く余裕が充分にある。
七月十一日に退院したな
つ江と相談してベランダをヤマトリカブトで満たしてみること
にするが、一緒に行きた
いと希望するなつ江の体調は優れず購入は先に延ばした。
 
なつ江が退院してから、私は住まいをコーポTからマンションSTに移してなつ江と
同棲し、コーポTは仕事場として使うことにする。なつ江は退院後も体の不調を訴え
、ベッドから離れられない。私はしばらく仕事を休みなつ江とのんびり過ごすが、遊
んでばかりもいられず、七月下旬から食品会社の企画と成立準備を再開する。
エパポレーターの.ガラスセットは七月九日に購入しておいたが、まずエパポレー
ターの試運転をしてみる。組み立てたエパポレーターのなす底フラスコに水道水を入
れて動かしてみるが、水道の蛇口にセットしたアスピレーター (減圧器)が減圧が進
むと蛇口から抜け、幾度繰り返しても同じだ。コーポTは新築のため針金を固定し
て蛇口を傷つけるわけにもいかず、ビニールのひもで結わえて固定してみる。しか
し蛇口とアスピレーターをビニールのひもで結わえても、ひも、が伸びて抜けてしま
う。そのうちに、なす底フラスコを本体(冷却器)に固定する留金が不充分であった
ためか、なす底フラスコが抜け落ちて破損する。結局、エパポレーターを家庭で使
用するのは無理と判断し、また箱に収めてしまい込む。
 
ヤマトリカブトの鉢植えの購入はなつ江の体調が回復しないため遅れるが、八
月中旬になり花の咲く時期が近づいたため早急に購入することにした。山野草販
売店Kは村役場の委託店と聞いていたので、村役場に電話をして電話番号を教え
てもらい、電話で注文する。九月上旬、電話で入荷状況を確認してから取りに行き、
二五鉢ほどを購入する
。なつ江は体力に自信がないと言い同行しなかった。購入した
二五鉢ほどはすべ
て花が咲いていたが、後部座席に収めきれない一O鉢ほどを、
車の後部トランクに
入れて花を傷める。前に購入した二七鉢のうちで花が咲いたのは
二O鉢ほどだが、今回購入したも
のと合わせて、三五鉢ほどのヤマトリカブトの花が
ベランダで咲き競うさまは見事だ
。なつ江は自宅で生花用に使用しただけで、茶道教室
の生花用には持っていかな
かった。その理由については私の記憶、が定かでないが、
体調が悪く茶道教室を
休んでいたか、花を持参する当番のときのテーマに合わなかったか、
などの理由だと
思う。

 
同年十二月上旬、購入したときの鉢がちゃちなものだったので、五二鉢ほどの
半分を腐葉土などを入れたブランクlに塊根を移し替え、残りの半分を大きめの鉢
に土ごとそのまま移し替える。栽培方法は山野草販売庄Kの主人にある程度は聞
いていたが、参考となる図書類もなく手探りの状態で、いろいろ試してみることにす
る。花は九月中旬で終わり、十一月には葉も枝も枯れてなくなり、十二月上旬には
茎がわずかに地上に出ているだけだ。塊根は、主根(烏頭)が腐りかけ、子根(附子)
がよく生育している。このベランダでの栽培は、翌一九八三年春にはブランターに
植え替えたものは
全滅し、鉢に植え替えたもので若芽を出したのは一五鉢ほどだった。
プランターの
ものは腐葉土などで養分のやり過ぎがよくなかったのだと思う。九月に
花が咲いたのは一O鉢ほどで、生花にも使わず鉢植えのまま鑑賞する。
翌一九八四年春は、前年花の咲いた一O鉢ほどが全部若芽を出し、花が咲い
たのは数鉢だった。ヤマトリカブトを東京で栽培する場合、夏の暑さが問題で夏に
枯れることが多く、夏を乗り切ると花を付け、翌春に若芽を出すこともわかる。
翌一九八五年春に若芽を出したのは五鉢ほどで、この五鉢ほどは私の友人が
七月に遊びに来てベランダに置いてあるのを確認している。このうち九月に花が咲
いたのは二鉢だった。
翌一九八六年春にこの二鉢は若芽を出し、五月下旬には相当生育していたが、
その鉢植えを利佐子の親族が確認している。この二鉢は同年七月、私がマンショ
ンSTを売却するときに廃棄した。鉢植えの世話は、購入した年は私となつ江との二
人で、一九八三年から一九八五年にかけては主になつ江が、一九八六年春は東
京に遊びに帰るたびに主に利佐子が水などをやっている。
 
一九八二年十二月、ヤマトリカブトの鉢植えをブランターなどに植え替えたとき、
私は、まだ腐っていないしっかりとした主根二個を、蓋付密閉ガラス瓶に無水エタノ
ールを二OOmlほど入れて漬けてみる。当時、食品会社の「ヘルシー月報」に掲載
する話題集めの一つのジャンルとして、日常食品の中で食中毒を起こすといわれ
ている物を、ゆくゆくマウスで調べてみるのも話題性があると思い、気がつくままに
密閉ガラス瓶を利用して無水エタノlルに漬けておいた。漬けておいた物はまだ「ジ
ャガ芋の芽」と「梅干しの種の中味」(微量の青酸が含まれ、多量に食べると中毒症
状が現れると聞いている)の二点だけだが、トリカブトも漢方薬の原料であると同時
に有毒だと山草図鑑に記載されていたので、右の二点と同じ目的で密閉ガラス瓶
に漬けてみた。このトリカブト塊根三個のエタノール漬けの密閉ガラス瓶は、
食品会社の資料な
どとともにダンボール箱に入れて、一九九O年十月まで保存
することになる。
 
一九八二年十月、私たちは結婚する。なつ江は常に体の不調を訴え、ベッドか
ら離れられない生活が続く。なつ江の希望で結婚後すぐに私は仕事場をコーポTか
らマンションSTの自宅に移し、食品会社の資料なども自宅に運ぶが、エパポレーダ
ーはなす底フラスコが破損していることもあり、家庭で使用することの難しさを思い
マンションごみ捨て場に破棄する。
しかし、自宅になつ江と一緒に一日中いたのでは仕事と遊びのけじめがつかず
、同年十二月、ポケットベルを常に持ち歩き、午前九時に自宅を出て午後五時に
は帰宅するとの約束のもとになつ江の了解を取り、仕事場をふたたびコーポTに移
す。それまでに、食品会社の設立場所である草加市近辺の調査や下見はほぼ終
えて宅配する料理の実習と献立表に取りかかっていたが、なつ江の病気が回復し
なければ食品会社を立ち上げることはできない。コーポTに仕事場を移しても、台
東区のかっぱ橋商店街などに食品会社で使用する備品や食器類を見に行く程度
で、ほとんどの時間デスクワークに終始する。
 
翌一九八三年一月、食品会社が宅配する料理の献立について、当時盛んに問
題になっていた食塩の摂取量を最重要課題と決める。さまざまな料理の実習と料
理表の作成を精力的にはじめるが、食材のうちには塩分のわからないものがある
。そこで、『日本食品標準成分表』に詳しくは表示されていない食品、たとえば、塩
鮭の甘塩、中塩、辛塩やウインナーソーセージなどを精製水に漬けて塩出しをし、
塩分が明らかにされている幾つかの食材を同じように塩出しをして、その精製水を
濃縮してなめ比べてみれば塩分のおおよその見当はつくと考える。その濃縮用に
エパポレーターが使えないか検討するが、水道の蛇口からアスピレーターが抜ける
ことは全自動洗濯機の蛇口用の器具を利用することを思いつき、もう一度試してみ
ることにして、同年三月一一十三日、三台目を購入した。
 
その間、二月十五日、なつ江はふたたび発病して虎の門病院に第二回目の入
院をする。多源性心室性期外収縮が現れるがその日のうちに回復し、十九日に退
院する。その後は月一回ほど通院して、病院で処方された抗不整脈剤を一年数カ
月にわたり毎日服用を続けることになる。五月二十三日、なつ江は検査のため虎
の門病院に第三回目の入院をするが、心臓に軽度の線維錯綜が認められたが、
それ以外は特段の異常は認められない。
 
四月に入り、私は精製水を薬店から購入して各食材を漬けてみるが、塩出し
がうまくできない。たくあんなどを塩抜きするとき細かく刻んで水に漬けてもんだりす
るが、そのようにしてもわずかな塩出ししかできない。塩出しができない原因がわか
らないまま試みは失敗に終わる。のちに、控訴審を担当した弁護人に、浸透圧の関係で
そのような方法での塩出しは無理だと教わるが、広辞苑で調べる以外に手段のない
私には、現在でもその原理が理解できていない。
結局、エパポレーターは使用する
必要がないまま組み立てることもなく打ち過ぎ
る。二回目に購入したときと同じ目的に
使用することも考えたが、全自動洗濯機の
蛇口用の器具は、受け口は電気店で注文
すれば購入できるが、差し込みは購入
の方法がわからず探し求めるまでには至らない。

 
同年九月、仕事場をコーポTからアパートSに移し、エパポレーターもアパートSに
持ち込み、引っ越し直後にエパポレーターが使用できるか試してみる。アパートSの
水道蛇口は古いもので傷が付いても問題はなく、蛇口とアスピレータlを針金でぐる
ぐる巻きにして解決した。なす底フラスコに食塩水を入れる。水道の蛇口が一つなので、
アスピレーターを
通した水を冷却器の循環水として使用するようセットする。ところが、
アスピレlター
は蛇口を全聞にして使用するため圧力が強く、循環水がうまく取れない。
それに、
アパートSは、六畳一聞に半畳弱の板の間と三O×四0センチほどの流しが
あるだ
けで、水圧の強さで水が飛び散るのを防ぎょうがない。家庭で使用するのは
無理だ
とふたたび認識し、試運転は中止する。
「ヘルシー月報」の話題集めの目当ても大分ついていたし、料理の実習と献立
表の作成に熱中していたときでもあり、エパポレータlを池袋の自宅に持ち込んだとき
にでもまた試運転をしてみようと思い、箱に収めて放置したままにする。

 その後エパポレーターは一度も箱から出さず、なつ江が死亡した直後の一九八
五年十月、エパポレーターはほかの荷物とともに池袋の自宅に運び、利佐子が死
亡し池袋の自宅を売却する翌年七月に事務所兼住居として賃借した葛飾区新小
岩のTピルに持ち込み、八月、一部のマスコミに騒がれて食品会社の設立を断念し
Tビルを退去したときに破棄した。これでエパポレーターとのかかわりは一切なくな
る。大阪に引っ越しをするとき、多くの口問物をダンボール箱に入れてTRビルに運
びリビングに積んだままにして、利佐子の死後、そのまま池袋の自宅に持ち帰るが
、そのダンボール箱の中にエパポレーターが含まれていたかは私の記憶は定かで
ない。
 
31-3 引用文 P126-P131 消毒用に購入を続けたエタノール
 
消毒用に購入を続けたエタノール
 
なつ江は、ケンとメリーという雄雌の血統書付きのチワワ犬を二匹室内で飼って
いた。ケンは私が左右の手のひらを合わせて広げるとその上に乗るほど小さく、メ
リーもケンよりひと回り大きい程度で、二匹とも実にかわいい。粗相をしたとき私が
怒ると、ケンもメリーも真ん丸の目に涙を浮かべてじっと私を見つめる。それが悲し
そうな表情に見えるのだ。じっと見つめるから目に涙が浮かぶそうだが、私には悲
しみのために涙を流したとしかみえない。
ケンもメリーも、なつ江がマンションSTに住みはじめたころ、デパートのベットショ
ップで生まれて聞もない子犬のときに購入した。そのときから二匹は私と面識があ
り、主人筋の人間として私をなつ江と同等に意識しなついていた。残念なことに、初
代メリーは、確か三歳だったと記憶しているが、この世を去った。ケンには、やはり
血統書付きの二代目メリーを世話することになる。このメリーは子犬を生んで子孫
を残したが、なつ江が死亡する数カ月前にやはりこの世を去った。六歳ぐらいだ
ったと思う。なつ江が帰らぬ人となったとき、ケンはメリーが死んだときには見せな
かった態
度を示す。なつ江を探して、日がな一日、部屋中をうろつき回るのだ。その姿、
いじらしく、私はケンを手元に置いておけなくなり、ケンの息子がいる親類のところ
あげることにする。ケンがなつ江の親類に貰われていくあいだ、私は、夜、ケンを
ベッド
に誘いふところに抱いて寝てやりながら、ともにやもめになった身を慰め合っ
た。

 話を三年ほど戻して、私がなつ江と同棲してからは、なつ江、が言うには、私が
帰宅すると、ケンは、私が自宅のある一一階のエレベーターを降りたところで耳を
ぴんと立てて様子をうかがうという。私が玄関の戸を開けるとケンは全力で走って
る。だが、床、が滑る。玄関の手前の曲がり角で、曲がりきれずに壁にぶつかって
転げる。それでもすぐ起き上がると、しっぽをちぎれるほど振りながら私に飛び込ん
でくる。そのあとをメリーはのたのたと走ってきて、ケンを抱いた私にまとわりつく。小
型犬のチワワは、子を生むために雌が雄よりひと回り大きいのが普通で動作も鈍い。
それに、遅れて家族になったために、ケンに遠慮をしていることもあるようだ。こ

行事は毎日のように繰り返される。


 なつ江はケンとメリーの下の世話のためにエタノールを購入していた。消毒用に
使用する以外に、和服の汚れ落としゃコーヒーサイホンの燃料にも使用するため
無水エタノールを購入して、消毒用に使うときにはエタノール七に対して水を三の
割合で加える。
病気をしてからはなつ江はさらに気を配り、手を消毒するための消毒液を洗面
器に常備するようになる。五OOM入り容器の無水エタノlルを一本、水を加えて一
週間使用し、それをケンとメリlの便器の消毒用に使って、洗面器の消毒液は新し
いものに入れ替える。それ以外に和服の汚れ落としゃコーヒーサイホンにも使用
するから、月に五OOM入り容器で五本から六本は使う。
私は、コーポTで一階の駐車場を借りていた。マンションSTはやはり一階に駐車場
があり、マンションを購入したときから一台分のスペースを確保している。私はなつ
江と同棲すると、自宅と仕事場のあいだを自家用車で行き来した。そのときから無
水エタノlルの購入は、ちり紙や洗剤などの日用雑貨とともに、コーポTに近い薬H店
から月に一、二度立ち寄って購入することになる。
私が薬H店とかかわりを持つのは、
一九八一年十月、コーポTに入居してからだ
。薬H店はコーポTの最寄りの駅前にあり、
外出などの帰りに立ち寄って薬や日用
品などを購入するようになる。そのような事情で、
なつ江と同棲してからも薬H店か
らの購入は続いた。
 
薬H店では、カプセル剤として、なつ江が常備薬としていた腹痛のときの鎮痙剤
「パボランカプセル」を年に四箱(一箱二一カプセル入り)ほど購入し、風邪薬の「ベ
ンザエース」を二年に二度新しくするために買い替えている。それ以外にも錠剤や
湿布薬なども購入していた。またカプセル剤としては、薬H屈の関連製薬会社が製
造したものだとして庖員に勧められた風邪薬の「フルカントジン」を一、二回、同じ理
由で勧められた強肝剤の「レパゴルトV」を数カ月間購入して私が服用してみた
が、特に効果も感じられず購入を中止している。
なつ江がいつごろからパボランカプセルを常備していたかはわからないが、よく
腹痛を起こすなつ江は、パボランカプセルを飲むとすぐ治ると言って旅行に行くとき
もかならず持ち歩いていた。一九八五年八月、薬H店の庄員からパボランカプセル
が製造中止になると聞いたとき、そのような理由から在庫していた七箱か八箱を全
部購入している。薬H店からは、薬や日用雑貨とともに、一九八三年七月から私が
仕事場をコー
ポTからアパートSに移す一九八三年九月まで、五OOM入り容器の無水
エタノール
を月に五、六本購入を続けることになる。
 
一九八三年二月に虎の門病院を退院してからのなつ江は、依然として偏頭痛や
全身の倦怠感などを訴えてベッドから離れられない生活だった。しかし抗不整脈剤
を服用しているためか、それまではよく自分で脈を取って軽い不整脈が出ていると
私に知らせることが多かったが、そのような訴えは少なくなる。
なつ江は、体調が良好なときは近所を散歩したり、池袋駅前のデパートに買い
物に出かけたりするようになった。だが、食事の支度は私の担当だ。食品会社の宅
配料理の実習を、そのまま一日三食の食事に利用するため苦労はない。気分が
優れているときはなつ江も手伝う。食材はデパートの食品売場やスーパーなどで
私が購入した。特に食材の価格の比較のためにスーパーを歩き回ることが多くな
る。食材の価格を含めて、その実習のすべてをコーポTで料理表や献立表にまとめ
る作業が、東京都足立区や埼玉草加市、越谷市などの集合住宅の顧客状況の調
査とともに仕事のほとんどを占めていた。
 
同年十月には仕事場をコーポTからアパートSに移したことによって駐車場がなく
なり、自宅と仕事場とのあいだは山手線を使って電車で行き来することになる。顧
客状況の調査など食品会社の立地条件を調べるときは自家用車を使うが、そのと
きにはアパートSの窓から見通しのきく路上に短時間駐車する。この自宅から仕事
場への行き来を自家用車から電車に替えたときから、メタノールをエタノールと勘
違いして購入することがはじまる。
仕事場で使用する日用品などは、週一度ほど朝電車を降りてから薬H店で購入
していたが、帰宅のときは池袋で毎日食材を買う必要があり、重量のあるエタノー
ルを帰宅時に薬H店で購入して電車で持ち帰るわけにはいかない。また、以前にな
っ江が池袋の薬局で無水エタノlルを購入していたときは、注文して取り寄せてもら
っていたということだったので、自宅近くで購入することはやめて薬H店で購入を続
けることにする。そこでエタノlルを購入するときは、月に一、二度自家用車で仕事
場に通いアパートSの前に路上駐車をするが、長時間路上駐車はできないためそ
の日はできるだけ顧客状況の調査などに出かけることにしていた。

 
薬H店のある駅前は、午後になると車を停めるスペースがほとんどなくなるほど
路上駐車が多く、購入に立ち寄るのはいつも午前中にした。池袋の自宅を午前九
時過ぎに出ると通常は薬H店のある駅前に、薬H庖が開庖する午前一O時以降に
着くが、道路の混雑状況によって午前一O時より相当早い時刻に駅前に着くことが
ある。毎日自家用車で通っていた九月まではそのようなときは購入は翌日にしたが
、月に一、二度自家用車で通う十月からはそうもいかず、かといって、駐車スペー
スが空いていてもバス停が並んでいる薬H店の前に開店まで駐車しているのは気
が引け、その場合は薬H庖の斜め向かいにあるJ薬局から購入した。このとき、メタ
ノールをエタノlルと勘違いして購入してしまう。その後は一九八五年六月まで、J薬
局からメタノールをエタノールと勘違いしたまま購入を続けることになる。
メタノールをエタノールと勘違いして購入した原因は、次のようなものだった。最
初に薬H店から無水エタノールを購入する一九八二年七月、一OO%アルコールを
求めて用途を尋ねられ、消毒用に使用すると言って消毒用は別途あると説明を受
け、納得してもらうために燃料用や和服の汚れ落としにも使うことを説明しなけれ
ばならなかった。その煩わしさから、J薬局では最初から燃料用に使うと言ったのだ
なつ江はコーヒーサイホンの燃料として長年エタノールを使用していたのだから
燃料用と言えばメタノールになるなどということは当時の私には未知のことだった。
毒物及び劇物譲受書にサイン押印して購入しているが、メタノールが劇物に指
定されていることは私は知らなかったし説明も受けていない。私には薬H店は量販
店、J薬局は調剤薬局という認識があり、譲受書には購入品名も用途も私は記入
したことがなく、ただ、サインと押印をしただけのため、調剤薬局における売り渡し
のなんらかの確認ぐらいに思い、用紙を詳しく見ることもなくサインと押印をしてい
た。それにJ薬局の前にはバス停があり、ごくわずかな時間駐車して慌ただしく購
入したことも用紙を詳しく確認しない原因になっている。また、薬H店とJ薬局の容器
やラベル、価格の相違は、製造する薬品会社の違いぐらいに考えて気にも留めな
かった。
私のアルコールの購入本数は、なつ江と同棲する一九八二年七月から、なつ江
が死亡する一九八五年九月までの三年二カ月のあいだに、月五本から六本の割
合で購入しているから合計五OOml入り容器で一九五本ないし二三四本購入した
ことになる。判決は、J薬局からメタノールを三六本程度購入したと推認している。
確かにメタノールの購入量はエタノールの五分の一程度だが、しかし私となつ江
が、メタノールで手を消毒していた時期があることを考えると、笑い話では済まされ
ない不注意だったといえる。
 
 31-4 引用文 P132-P135 食塩の摂取過多とマウスによる実験
 
食塩の摂取過多とマウスによる実験
 
私が仕事場をコlポTからアパートSに移した一九八三年九月、同年一月に決め
た宅配料理の食塩含有量を低く抑えるという最重要課題を、どのように顧客にアピ
ールするかということを考えはじめる。塩分の摂取過多による健康への影響について、
当時、高血圧症などを中心にさ
まざまに取りざたされていた。
しかし、塩分を取り過ぎると体にどのような影響を及
ぼすか、ヒトはもちろんのこと、
具体的な動物実験の結果は明らかにされていない
。私はここに目をつけた。マウスで
実験して、「ヘルシー月報」に掲載できれば話題
性は充分にあると考える。いま思い
起こすと、素人の浅はかな思いつきにすぎない
とも言えるが、その当時は真剣だった。
マウスは二十日鼠と言われるように、成長が非常に早いと聞いていた。現在でも正確
なことはわからないが、実験をした当時はうろ覚えの知識でマウスの一はヒ
トの一年分
の成長に該当すると誤解しており、マウスに一カ月間も食塩を多量に
与えれば、ヒトが
三十年間食塩を多量に摂取したのと同じ結果が得られると錯覚
する。
まず、購入するためにマウス探しからはじめる。数件のペットショップを探すが見
つからない。十一月か十二月か記憶がはっきりしないが、池袋のベットショップで五
匹を見つけて一回目として購入する。マウスを殺してしまう可能性のある実験で、
なつ江の目をはばかり、犬もいることから、自宅で実験することを避けてアパートS
に持ち込む。
 
五匹と少数なので予備実験のつもりで針なしの注射器で食塩水を口に注入しよ
うとするが、マウスの扱い方がわからず、指を噛まれるやら、注射器を噛み砕かれ
るやらで実験を中止する。五匹のマウスは、池袋の自宅近くにある廃屋の荒れ庭
内に放してやる。翌一九八四年二月または三月、二回目の購入をする。その前に
、マウスの扱い方を知るために書店に行きさまざまな本を調べるが記載がない。た
またま法医学の本をめくっていると、マウスを手のひらの上にあおむけにして注射
を打つ写真が載っている。それを参考にすることにした。
ペットショップで五匹のマウスを購入したとき、実験動物を販売する会社があると
聞いていたので電話帳で調べ「株式会社N」を知り、マウスを五〇匹(最少販売位)
を購入する。アパートSに持ち帰り、針金で目を細かく細工した金属製の鳥龍に入
れ、ドックフードと水を与える。マウスは、ドックフードを両手で持つようにしてカリカ
リと食べる。その姿、が愛くるしい。そっと抱くようにして手のひらの上にあおむけに
乗せると、じっとしたまま私の顔を見ている。自家用車を路上に駐車していることも
あって、すこしのあいだマウスと遊んでからその日は帰宅した。
翌日から実験に着手する。食塩を一gから一Ogまで、一OO叫の精製水に溶かし
て一0種類の食塩水を作る。マウスは五匹を一グループとし、一Oグループをマジッ
クでしっぽにしるしを付けて区別する。食塩を溶かした食塩水を、それぞれ一gずつ
、一日に一回注射器で腹部に注射する。マウス一匹の体重は二Ogほどだったから
、体重六O同の私に換算すると一日に三Ogから三OOgの食塩を摂取したことにな
る。当時は単純に比較しただけで、マウスとヒトには種差があることまでは頭が回ら
なかった。
 
腹部に注射で投与したのは、注射器を噛み砕かれないための苦肉の策だった。
また、注射によって投与しても、投与部分から漏れることも吐き出すこともなく、尿と
してしか排泄されないことから、胃に経口投与して吸収されるのと同じと考えた。
六畳一間のアパートで五〇匹のマウスを飼うことの困難さは、実験の第一日目
から思い知らされる。糞と尿、それにドックフードの入り混じった悪臭が、窓を開け
ていても部屋中に充満する。ヤマトリカブトの栽培と生花ヤマトリカブトの栽培と生花
注射をするため、電気掃除機の本体を収めるポリ容器に、五匹を鳥寵から取り
出して移す。購入したときは真っ白で愛くるしかったマウスが、汚れた姿で容器の
片隅にへばりつくようにしているのを見ると哀れだ。おびええている!やめようか。
そう思うが、ヘルシー月報の話題にしたいという気持ちに負けた。右手でマウスの
しっぽを掴むと引き上げ、左の手のひらにあおむけにそっと抱くように乗せるとじっ
としている。私の左手が震える。マウスが震えているのと見間違えるように。注射器
を腹部に立てるとマウスは暴れた。私はマウスを握りしめる。五匹、一O匹と回を重
ねるうちに私は慣れてしまった。
毎日、しっぽのしるしをマジックで書き加えるが、五日目には、しるしがにじんで
消えてしまい区別がつかなくなる。その上、鳥龍は毎日掃除をするが、アパートの
小さな流し台では糞と尿を処理するのが精一杯で、鳥龍を洗うことができず、ドック
フードに糞と尿が入り混じり鳥寵はどろどろに汚れ悪臭も我慢ができないほどにな
る。さらに、購入から一週間でマウスの体重は二倍ほどに成長し、糞と尿にまみれ
、虐待されて凶暴になったマウスを扱うことに怖さを感じた。
一カ月ほど実験することを予定していたが、五日間で実験をやめてしまう。体毛
が異常に抜けるとか、手足や体の動き、が極端に鈍るなどを確認しようとした私の
前で、体になんの変化も起こさないマウスは汚れた姿で元気に動き回る。ヘルシー月報
への話題の提供は、笑い話として掲載する以外に成果はなかった。
五O匹のマウスは前回と同じ廃屋の荒れた庭内に放してやり、鳥寵は汚れたま
まビニール袋に入れて自宅のごみ捨て場に廃棄する。
 
31-5            引用文 P135-P143 料理実習のためのクサフグの購入
 
料理実習のためのクサフグの購入
 
この一年ほどで私の料理人としての腕前は相当に上がっていた。料理本を参考
にして実習した料理はすでに三OO品目に近い。その中には魚料理が多く含まれて
いた。池袋にあるデパートの食品売場には、カツオ・ハマチ・サパなどさまざまな魚
が丸のまま陳列されている。それらの魚を購入し料理するのも実習の一つだった。
料理に使う食材の原価を判断する上で、切り身を使ったのでは意味がない。
実習書を見ながらさまざまな魚を捌いていくうちに、マウスで食塩実験をする一
カ月ほど前の一九八四年一月ころ、実習書で魚を捌く面白さはなんといってもフグ
にあることを知り、捌くことに興味を覚え、同時にフグ料理を献立に加えられないか
を検討してみることにする。その結果、材料費としては、トラフグは高価で無理だが
マフグなら可能性があることがわかる。また、フグの調理師免許所持者を雇用する
ことは採算上不可能で、私が自ら捌き調理ができるなら献立にフグ料理を取りれる
ことは可能だと判断し、フグの調理師免許取得について考えてみることにする。
早速フグ料理の実習書を購入して調べてみると、フグの毒性なども含めて種々
のことが解説されている。特に捌き方の善し悪しで身や皮に毒が回ることが解説さ
れており、さらに興味が強くなる。
そこで、手始めにフグを捌いてみることにするが、困ったことに、都府県条例でフ
グの調理師免許を持たない者は調理済みでない丸のままのフグは購入できないこ
とがわかる。そうなると凝り性の私はどうしても捌いてみたくなった。やむなく、丸の
ままをひそかに購入する方法を検討する。書作畑に行き漁貝図鑑で調べると、毎
年初夏に神奈川県三浦海岸でクサフグの産卵が見られることを知り、クサフグなら
理由のいかんによっては丸のまま入手できると判断する。

 
その後、駿河台電話局に行き電話帳で横須賀市で漁業を営むM氏を知り電話
で問い合わせたところ、捕獲できるとのことで一匹一OOO円で依頼する。購入の理
由については、料理の実習に使用するとは言えず、大学でクサフグの毒性を研究
している友人に頼まれたと嘘をつく。
一匹一000円という値段は私から言いだした。M氏の話では定置網を仕掛けて
捕獲するということだったが、私はわざわざ定置網を仕掛けると理解し、それでは
安価な代金は支払えないと考えた。そのためひそかに購入する後ろめたさもあって
、一匹一000円と約束したのだ。また、クサフグはほかのフグに比べて小形であるこ
とは魚貝図鑑で知っていたが、一回の定置網で一OO匹ほど捕獲できたとして、一
O匹程度は料理の実習に使用できる大形のものが交じると思い、一回の捕獲依頼
で目的は達成できると決め込んでいた。当時銀座のクラブで一晩飲めば一O万円
などはすぐに消えてしまう。エパポレーターを三回購入して惜しげもなく廃棄したと
きも同じだった、が、私の金銭感覚はこのように麻療していた。最初に取り決め購
入代金は、大形の物を得るために意地になり、六回にも及ぶ捕獲依頼に影響して
しまう。

 
一回目として三月に依頼し、電話で捕獲状況を聞いて四月に取りに行くが捕獲
数は三O匹ほどだった。受け取ってその場で確認すると大形の物がない。仕方がな
くふたたび捕獲依頼をする。目算が外れて料理の実習に使える二0センチ以上の
物がないためできるだけ大きめの物をと思い、次回は一0センチ以上の物と限定す
る。三0センチ以上と指定したかったが、毒性の研究と嘘をついたため不自然過ぎ
るので二0センチ以上とは指定できなかった。このときは生けすで生かしていたと聞
いたので、次回は冷凍保存でいいと伝えて帰る。
持ち帰ったクサフグは一五センチほどの一番大きめの物を捌いてみようとするが
、実習書のとおりに捌くには小形すぎて実習にならず、全部生ごみと一緒に自宅マ
ンションのごみ捨て場に廃棄した。
 
このころなつ江は、前回の入院から発作を起こすこともなく一年以上経過してい
るということもあって、病気の回復には大分自信を持ちはじめていた。遠出は避け
ていたが、体調のいい日は銀座などに食事や買い物に私と出かけることが多くな
る。私の料理の実習は、アパートSの台所は手狭なためすべて自宅で行っていた
が、なつ江は女性の立場からよくアドバイスをしてくれ味見役としても優れた能力を
発揮する。私は食品会社を立ち上げることがそろそろできるのではないかと期待し
た。
 
二回目のクサフグの購入は、五月三日に受け取りに行った。受け取りの日まで
が明確なのは次のような理由からだ。私はキャッシュカードや小銭以外に、いつも
一O万円を予備として持ち歩いていた。このときの捕獲量も前回と同じく数十匹と
思い、一O万円で足りると考えた。ところが、一五O匹ほど捕獲されていた。そこで
一O万円を支払い、残金は数日後に届けるからと言って名刺(自宅の住所、電話番
号、神谷経営経理事務所、神谷力と明記)を渡す。その名刺の裏にM氏の筆跡で、
「五月三日」「五O匹五万五月七日」と記載されているとのM氏の証言があることか
ら、五月三日に購入し、残金は五月七日に届けたことになる。
数十匹ずつビニール袋に入れて冷凍してあるのを、黒い大きなビニール袋に入
れて持ち帰った。こちこちに冷凍されていたので、解凍のつもりでそのまま自宅の
ベランダに放置する。翌朝、まだ完全に解凍されておらず、ベランダに放置したまま
なつ江と外出した。帰宅が遅れ夜に確認したときには半分腐ったような状態で、大
形の物も見当たらず、全部自宅マンションのごみ捨て場に廃棄する。なつ江には購
入価格のことは話していなかったので、廃棄して無駄にしたことには、なつ江はな
にも言わなかった。このとき、クサフグは腐りやすく、腐りかけると表面がどろどろし
たようになることを知る。産卵が初夏であることから大形の物が混じらないのは
時期的な影響と考え、次
回に期待して数日後再度捕獲を依頼する。

 
三回目の購入は翌年六月になった。二OO匹ほど持ち帰り、バケツにぬるま湯を
入れてその中で解凍する。他の物に比べてとりわけ大きい三0センチほどの物が一
匹見つかる。その一匹をよく水洗いしてサランラップに包み、自宅の冷蔵庫に保管
し、他の物はごみ捨て場に廃棄した。一匹では実習に料理実習のためのクサフグ
の購入ならないためふたたび注文する。定置網を外し捕獲が難しいがなんとかす
るとの返事だった。大形の物が一匹混ざっていたことから、次への期待が強くる。
 
 同六月十四日、体力に自信があるということで、なつ江は群馬県高崎市の実姉
のところに遊びに行くが、夜、起立不能になり国立高崎病院に第一回目の入院を
する。心電図に異常は確認されない。十六日に退院して帰宅する。
その後翌七月十日、なつ江はふたたび発病して虎の門病院に第四回目の入院
をする。呼吸停止や心室頻拍が現れるが十四日までに回復し、二十二日に退院した。
この入院の前後だったと記憶しているが、虎の門病院から処方されて毎日服用
していた抗不整脈剤の服用は中止される。病院の説明では、長期間の服用で体に
悪い影響を及ぼすおそれがあるからということだった。
なつ江は相次ぐ発病でふたたびベッドから離れられない生活に戻るが、体調に
自信があるときは近所の散歩や池袋のデパートなどへの買い物にはよく出かけて
いた。
 
注文したクサフグは九月に入り四回目として三OO匹ほど購入した。釣りなどで
捕獲したので日数がかかったということだったが、やはり三0センチほどの格別に大
きい物が二匹見つかる。
先の一匹と合わせて三匹を数日後に実習書のとおりに捌いてみる。なんとか捌
けた程度で満足がいかず、再度購入しようと電話をするが、時期的に捕獲は難しいので
来年、定置網を仕掛ける時期まで待ってほしいとの返事を受ける。
フグを捌く目的の一つは、捌き方によって身や皮に毒が回らないことを確認する
ことにあるため、捌いた三匹のクサフグの身や皮、それに肝臓を、それぞれ捌いた
順を明らかにしてサランラップに包み、自宅の冷凍庫に保存する。後日、マウスを
購入して調べる予定にしていた。

 
翌一九八五年二月ころ電話で注文し、四月に捕獲できたことを確認して取りに
行く。五回目としてニOO匹ほどを持ち帰り調べるが、大形の物がなく全部廃棄する
。もう一度捌いてフグ料理を献立に加えることに見通しをつけなければという気持
ちから、再度注文する。大形の物を得るために意地づくになっていたといえる。
六月、六回目として二OO匹ほどを購入して調べると、三0センチほどの大形の物
が三匹見つかる。冷凍保存して数日後に捌いてみるが手際がよいとまではいかず
、前回よりましな程度だ。フグ刺しの薄作りなども試みたが、とても手に負えない。
この程度のことを幾ら繰り返してもフグの調理師免許の取得など不可能といえる。
フグ料理を宅配の献立に加える見通しの立たないまま、免許取得は断念する。た
だ、捌いた各部位の毒の回り方に興味があり、前回と同じように捌いた順を明らか
にして、身・皮・肝臓をそれぞれサランラップに包み自宅の冷凍庫に保存した。
 
同年六月か七月、マウスを五〇匹(最少販売単位)、三回目として実験動物を販
売する株式会社Nから購入し、アパートSに運び込む。このときの購入目的は、捌
いたクサフグの各部位の毒性を調べるためだった。前回購入したときの経験から、
マウスを一泊以上の泊まりで飼うことをやめ、購入したその日のうちに実験は済ま
せることにして購入時のダンボール箱に入れたまま餌も水も与えない。
あらかじめアパートSに持ち込んでいたクサフグの各部位と、食品会社の各種の
資料とともにダンボール箱に収めてアパートSに保管しておいたジヤガ芋の芽やト
リカブト塊根などのエタノール漬けの毒性を調べてみることにする。
解凍しておいた六匹のクサフグの各部位一八個のうち、最初と最後に捌いた部
位、肉、皮、肝臓を六個のワイングラス等にそれぞれ少量切り取って入れ、すりつ
ぶして精製水を加える。また、ジヤガ芋の芽、梅干しの種の中味、トリカブト塊根を
漬けたエタノlルをガラス瓶から三枚の皿に少量移す。この九種類のものを、注射
器でマウスの腹部に投与することにする。マウスを九匹、ダンボール箱から電気掃
除機の本体を収めるポリ容器に移す。相変わらず愛くるしい。ちょこちょこ走り回っ
ては、背伸びをして届きもしない容器のふちから外をのぞこうとする。私はすこし怖
じ気づくが、一匹のマウスのしっぽを摘んで引き上げるとそっと手のひらで抱く。
そのマウスに、最初に捌いたクサフグの肝臓の水溶液を注射して容器に戻す。
すこしの間じっとしていたマウスは、急に幾度も飛び跳ね、激しく痙攣して死亡する
私はその凄惨な情景から目が離せず、顔をしかめてじっと見つめていた。さらに
悲惨なのは、ほかのマウスの反応だ。八匹のマウスは容器の片隅に寄り集まって
、背を低くしておびえている。それも、次の一匹にならないで済むように、必死で互
いの体の下に潜り込もうとしている姿に私には見えた。私はショックを受け、それ以
上続けることができなくなり投与は一匹で中止する。

 
クサフグの各部位を自宅から持ち出すとき、なつ江には友人に毒の回り具合を
調べてもらうと言い訳をしたが、やはり自宅で実験をしないでよかったと私は胸を
撫で下ろした。クサフグの各部位はふたたび仕事場の冷蔵庫に冷凍保存し、
ワイングラスや皿
に入れたものは流しで処分する。トリカブト塊根のエタノlル漬けの
密閉ガラス瓶な
どは、また食品会社の資料の入ったダンボール箱にしまい込む。
マウスはその日
のうちに前回と同じ廃屋の荒れた庭内に放してやった。このような
経験をしたにも
かかわらず、数日後、凄惨な情景から受けた印象も薄れ、ヘルシー
月報の話題に
するためにまた試みる機会もあるかと考え、最初と最後に捌いたクサ
フグの各部
位を、六個の密閉ガラス瓶を使用してエタノール(勘違いして購入していた
メタノール
の可能性もある)に漬けて保存し、ほかのクサフグの各部位は廃棄する。
その後、このクサフグの各部位を漬けた密閉ガラス瓶は、トリカブト塊根のエタノ
ール漬けの密閉ガラス瓶などとともに食品会社の資料と一緒にダンボール箱に入
れて引っ越しのたびに持ち歩くことになる。
 
一年三カ月のあいだに、クサフグを六回にわたり一O八O匹ほど購入し、約一O
八万円を支払っているが、その費用の支出については私はなんら後悔しなかった
それほどまでに金銭感覚は麻痩していたといえる。
その間、六匹の大形の物を
入手するが、その六匹は体長三0センチほどで他の
物に比べて格別に大きかった。
魚貝図鑑を見ると、クサフグとショウサイフグとは素
人には模様の区別がわからない
ほどよく似ている。だが、大きさが違うと記載され
ていた。そのことから、当時は気が
つかなかったが、いま考えると、私が捌いた六匹のフグはショウサイフグではなかった
かと思えてくる。
食品会社の宅配料理の献立にフグ料理を加えたいとの望みは、その調理の難
しさからかなわぬ夢となる。それが納得できただけで当時の私は満足していた。
 
 31-6 引用文 P143-P151 なつ江の死亡と大阪転居
 
なつ江の死亡と大阪転居
 
一九八四年六月、七月と相次いで発病し入院したなつ江はしばらく遠出を避け
ていたが、なつ江の実兄が腎臓病で手術を受けたということもあって、九月にその
見舞いがてら群馬県の実家に遊びに行った。実家でなつ江は不快感を訴え、私と
自家用車で東京に戻る途中、国立高崎病院に寄り診察を受け不整脈が確認され
、第二回目の入院をする。症状が軽く、翌日退院して東京に戻った。
その二カ月後の十一月二十三日、再度発病して虎の門病院に第五回目の入院
をする。呼吸停止や心室細動が現れるが、二十四日には呼吸も正常に戻り、十三
月十一日に退院した。

 
なつ江は一九八三年二月に虎の門病院に第二回目の入院をして以来、一九八
四年六月に国立高崎病院に第一回目の入院をするまでの一年四カ月のあいだ、
体調不良の訴えや、自ら脈を取り軽い不整脈を知らせることはたまにはあったが、
入院につながるような発病はしていない。この間、なつ江は虎の門病院から処方さ
れた抗不整脈剤(錠剤)を毎日服用している。また、国立高崎病院に第一回目の
入院をしたときも不整脈は現れていない。さきにも述べたように、このあとだったと
思うが、抗不整脈剤の虎の門病院での処方が中止される。なつ江はこの抗不整脈
剤の服用をやめたことを気にしていた。
抗不整脈剤の服用を、なつ江がいつやめてふたたび飲みはじめたか、私の記憶
は確たるものではないが、なつ江は虎の門病院に第五回目の入院をしたころ主治
医に頼んで処方してもらい、ふたたび抗不整脈剤を飲みはじめたように思う。その
後、なつ江は十カ月間ほど発病していない。

 一九八五年九月二十九日、私たちはなつ江の実家に行き、翌三十日午前一時
ころなつ江は気分の不快さを訴えて地元にある金海循環器科病院に入院する。呼
吸停止、房室ブロック、心室性期外収縮などが現れ、午後一O時一六分心不全で
死亡する。
 
私の資産は、なつ江が死亡する数カ月前には食品会社を立ち上げるには不可
能なほど目減りしていそのために、このころ資金の手当てがもっとも重要な課題と
なる。食品会社を企画した当初は、規模は小さくても自己資金を中心に若干の銀行
らの借入金だけで食品会社の経営を行なうことを計画していた。そのため、最初の
「経営企画書」は銀行提出用の簡単なものだった。なつ江の病気が長引くに従って
、デスクワークに専念するうちに企画が豊富になり、特に料理の実習による料理
表、が三OO品目を超えるころから料理表を取り入れて企画書を大幅に書き替えた
。なつ江が死亡する三カ月ほど前には自己資金が枯渇状態に陥り、経営企画書
は出資者を募集するという方向で書き直す。下書きを終え、印刷物にするための
清書をはじめた矢先になつ江に死なれた。

 
その痛手から無性に東京を離れたくなる。大阪に行こう。そう決心をすると、それ
が最善の方法と食品会社の企画と設立準備思えてくる。関西は食文化の中心と
言われていた。関西風の味付けに興味をいだいていた私は、その研究と、あわよく
ば関西地域で食品会社の事業展開ができないかと考え、その可能性を探ることに
した。大阪と京都の中間点を足場にすることに決め、同年十一月初めに寝屋川市
のGハイツを賃借し、大阪転居の準備をする。自宅マンションや宝石などの売却を
予定して資金の目当てをつけた。その後、同月十八日に利佐子と知り合い、利佐
子は大阪転居を承諾し、Gハイツは事務所として使用し、大阪市城東区に住居とし
てTRビルを賃借して翌一九八六年一月に大阪に転居する。

 私は土曜日と日曜日それに祭日を除く毎日、京阪本線でTRピルとGハイツのあ
いだを通勤する。特に日程を組んでいるわけではなかった、が、仕事場へ勤務する
雰囲気を作ることがだらだらとした仕事にならないで済むと考えた。私は午前九時
ころTRビルの自宅を出て京阪本線に乗り、香里園駅前で食材を購入してGハイツ
で朝食を作る。昼食は関西地域の味付けを知るために、できるだけ外食にしてい
た。帰宅時間は午後六時ころになる。

 
大阪での利佐子の生活は、私と五時間ほどの時差があった。クラブ勤めの習慣
から抜け出せなかったようだ。起床は昼過ぎになり、起きるとコーヒーにクッキーな
どを軽くつまむ。それで朝食は終わる。このスケジュールは、私が休日で自宅にい
るときも同じだ。夕食は私の帰宅後、午後七時ころになる。このとき利佐子は、一
日の食事をこの一食で取るのではないかと思うほどよく食べる。利佐子はテレビの
クイズ番組が大好きだ。ほとんどのクイズ番組を録画し夜半に見ている。そのとき
夕食の残り物で夜食を取るというが、私は白川夜船で確認したことはない。利佐子
の就寝は午前四時ころとのことだった。私は朝、利佐子を起こさないようにそっと家
を出る。

 
私の大阪での仕事は、食品会社の事業展開に適した地域を探すことからはじま
る。自家用車を大阪へは持ち込んでいないため、電車を使い徒歩で探した。京阪
本線の沿線や淀川を挟んだ対岸の阪急京都線の沿線を探すが、文化住宅と呼ば
れる長屋のように連なる二戸建ての密集地帯はよく見かけるが、埼玉県草加市近
辺のような高層住宅が密集している地帯は見つからない。その上、地域の状況を
把握することも困難だ。三月末までこの調査は続けたが、関西地域で食品会社の
事業展開をすることの期待はほとんど絶望的と考える。
右の仕事とともに、関西風の味付けを研究することも重要な課題だった。庶民の
味付けを知るために昼食を一般食堂で取り、同じ食材を購入してGハイツでその味
付けを再現し、料理表にまとめる。また、利佐子を連れて京都に行き、繁華街にあ
る肩の凝らない料理屋で食事をしたり、大阪の主な繁華街を連れ歩いて食事をし
た。だが、東日本で生活してきた私にとっては、醤油の味が薄く食塩の味が強く感
じられる関西風の味付けには馴染めない。それでも、だし汁の取り方には興味を惹
かれた。この食べ歩きの成果としては、関西料理の中から、めぼしいものを宅配料
理の献立に加えたことだ。
 
私の大阪での生活態度は遊び心が強かったように思う。過去に京都へはよく旅
行で来ていたが、大阪に足を向けることはほとんどなかった。P社に勤めていたころ
大阪支庖への出張はたまたまあるが、日帰りのため街を歩くことはしていない。利
佐子と大阪に転居してからの私は大阪の街々が珍しく、梅田や御堂筋などの北や
南の繁華街はもとより、十三や天王寺まで足を伸ばす。私一人のときもあれば、利
佐子を連れて歩くこともあった。大阪に転居してからしばらくは、私は観光気分が抜
けなか梅田や御堂筋などの北や南の繁華街はもとより、十三や天王寺まで足を伸
ばす。私一人のときもあれば、利佐子を連れて歩くこともあった。大阪に転居してか
らしばらくは、私は観光気分が抜けなかったように思う。
私が遊び心でいたのに比べると、利佐子の気持ちは沈んでいたようだ。大阪の
街をどれほど連れ歩いてもあまり関心を示さず、利佐子は大阪の土地柄に馴染め
ないと言う。
大阪に転居して一週間ほど経った一月下旬、利佐子は私が仕事場としていたG
ハイツに遊びに来る。そのとき、Gハイツから一00メートルほど奥にある喫茶屈に
立ち寄り、利佐子はコーヒーを飲みながらカウンター越しにその店の経営者夫妻と
親しく話を交わす。その店と私のかかわりは、Gハイツへの引っ越しのとき、使用し
たレンタカーの荷台をその喫茶店のひさしに引っかけて壊し、その弁償に行ったの
がきっかけだった。私は利佐子にいい知人ができると期待する。しかし、京都に行く
途中で利佐子が二度目にGハイツに立ち寄ったとき、その喫茶庖には行かなかっ
た。その理由は、大阪の人とは話が合わないということだった。自宅近所のスナッ
クにも二度ほど行ったが、長続きはしていない。やはり利佐子には大阪の水は合
わなかったらしい。
Gハイツの仕事場は、六畳の和室と一畳ほどの台所と狭い。食品会社の資料は
ダンボール箱から出し、フグの部位などのアルコール漬けの密閉、ガラス瓶は台所
の冷蔵庫の上に置いていた。一月下旬、Gハイツに遊びに来た利佐子は、その九
個の密閉ガラス瓶を見て不思議そうな顔をする。私は利佐子にクサフグを購入した
経緯やヤマトリカブトを栽培した顛末などを話すが、利佐子はそれほど関心は持た
ず、むしろ、説明しながら私が広げた料理表に興味を示した。
 
二月に入り、私は利佐子を連れて黒門市場に遊びに行った。大阪では庶民の台
所といわれていると聞いて、相当規模の大きい市場であると予想していたが、予想
をはるかに超えていた。この市場で揃えることのできない食材はないだろうと思い
ながら利佐子と歩いていると、トラフグを生きたまま販売している店がある。それも
何軒もだ。客の注文を受けてトラフグを捌きはじめた店の前に私たちは立ち止まる
見事な包丁捌きだ。私たちは見とれていた。そのとき私は、自分の捌いたクサフ
グの各部位の毒性を調べてみたいという衝動に駆られる。
その思いは、食品会社の立地条件の調査や食べ歩きなどに忙しく、しばらく沈静
していた。経済状態の先行きの見通しが立たなくなり、そろそろ東京に戻ろうかと考
え出した四月下旬、私は食品会社の資料の整理をはじめる。そのとき、クサフグの
部位を漬けた密閉ガラス瓶など九個のガラス瓶の毒性を一度調べてから廃棄する
ことにした。

 
四月二十六日、実験動物を販売する会社を電話帳で調べてA店を知り、電話で
注文する。タクシーを雇い住所を頼りにA店を探し、最少販売単位の五O匹を購入し
てGハイツに戻った。
マウスを入れたダンボール箱の蓋を聞ける。十カ月ぶりのマウスとの対面、だ。
三回目購入のときと同じように、何匹かのマウスが背伸びして外をのぞこうとする。
やはり愛くるしい。私の脳裏にあのときの凄惨な情景が鮮明に浮かび上がる。私
は台所との境の戸を閉め、一匹のマウスを取り出して畳の上に放す。マウスは走
る。私はいさりながら手で追いかける。マウスが止まる。私も手を止める。マウスは
私を見ているが、おびえた様子はない。私は自然に顔をほころばせた。
そのマウスを捕まえるのに、私はしばらくのあいだ無心に一匹のマウスと戯れて
いた。マウスをダンボール箱に戻し、私はふわりとした気持ちで、五O匹のマウスに
視線を送り続ける。そのままダンボール箱の蓋を閉め、箱を持って外に出た。Gハ
イツのすぐ近くを通る京阪本線の線路際に立ち止まり、すこしのあいだ考えるが五
O匹のマウスを線路際の側溝に放してやる。九個の密閉ガラス瓶は、台所の冷蔵
庫の上に載ったままだった。
 
マウスを購入する十日前の四月十六日、私は旅行代理店を訪ね沖縄旅行の予
約と代金の納入を済ませる。私が利佐子とその友人三人を沖縄旅行に招待すると
利佐子に約束した日や、私と利佐子が、友人三人を旅行に誘った期日などはもう
ひとつ記憶が定かではないが、私が利佐子に沖縄旅行を約束するまでの経緯は
おおよそ次のようなものだった。

 一月下句、利佐子の両親を関西旅行に招待する相談をしていたとき、互いにそ
れまでに旅行した旅先の話の中で、利佐子が鹿児島県の与論島に行ったときの話
をする。与論島が沖縄県にあると勘違いしていた私は、全国津々浦々旅行はして
いるが、沖縄県にだけは足を踏み入れたことがないことを話した。それがきっかけ
となり、沖縄旅行の話になる。私はいつもの悪い癖で、沖縄に食品会社の食材とな
る野菜類の生育状況を見学する仕事があり、費用は会社の経費で処理できるから
と、格好をつけて嘘をつく。もちろん、そのような興味があったことは事実だ。利佐
子は沖縄本島には行ったことがあるから周囲の島に行きたいと希望し、私はそれ
を受け入れる。
 しかし、猫がいた。二人が一緒に二日以上自宅を空けることはできない。利佐子
は友人を呼んで留守番を頼むという。東京にいるときはよくそうしたそうだ。東京な
らまだしも、友人を大阪に呼ぶのではあまりにも厚かましい。そこで私はフェミニスト
ぶりを発揮する。私は那覇近辺を見学して一泊で戻るから、利佐子は友人を誘っ
て離島の観光をするように提案した。利佐子は大変喜んだ。早速、Kクラブに勤め
ていたときもっとも世話になった友人U子を招待したいと言う。だが、U子に勤めが
あるからと断られる。

 
二月に友人Aが泊まりがけで大阪に遊びに来た。そのときも与論島に旅行したと
きの話が出たと私は記憶している。三月には友人Cが泊まりがけで遊びに来て、三
人で天橋立や南紀白浜に日帰りで旅行する。両親を招待する関西旅行の下見も
兼ねていた。このころ、沖縄旅行に招待する友人としてAとCを利佐子が決めたよう
に思う。その後、友人J子から利佐子に電話があり、利佐子が不在のため私が電
話に出て沖縄旅行に招待したいと話す。利佐子からJ子は非常に親しい友人だと
聞いていたからだ。数日後に利佐子が連絡を取りJ子は参加することになる。
旅行先や旅行日程などの利佐子との細かい相談は三月になったと記憶してい
る。沖縄地方のガイドブックを見て、私は西表島が珍しいと言うと利佐子は賛成
する。石垣島を足場にすることにして、私が四泊五日の日程を組んだ。
四月十六日、利佐子と三人の友人の予約を済ませるが、その後、J子が都合で
行けなくなり、その代わりに友人Bが加わった。
このような経過で沖縄旅行に出発した利佐子は、五月十九日、私と那覇に一泊
したのち、翌二十日、友人三人と石垣島に到着した直後に死亡する。
 
食品会社の大阪での設立について、私は四月下旬には見切りをつけていた。六
月か七月に東京に戻ることを予定して資料の整理をはじめながら、経済状況の先
行きの見通しが立たなくなった事実を利佐子にどのように話すか考えはじめる。利
佐子の怒りは買いたくない。そう思う私は、利佐子にできるだけ衝撃を与えないよう
に、なしくずし的に話すことにした。
利佐子は、五月上旬、前年まで勤めていたKクラブの仲間たちと北海道旅行に
出かけるなど大阪に落ち着く日が少なく、私は利佐子とゆっくり話し合う機会が持
てない。というよりは、それをいいことにして、私は事実を話すことを先送りにしていた。
経済の行き詰まりが目前に見えてきた五月、事実をなしくずし的に話す状況に
はないと悟った私は、沖縄旅行を済ませてから事実をそのまま話すことにした。し
かし、利佐子の死でその機会を失ってしまう。沖縄旅行から帰った利佐子に事実を
話すことができていたなら、私は不正行為より引きずる上辺だけの生活から目覚め
るきっかけを掴めていたかもしれない。私は、経済的に見栄を張る虚栄の世界を歩
み続けることになる。
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 31-7 引用文 P151-P156 白いカプセルと利佐子の服用
 
白いカプセルと利佐子の服用
 
利佐子が服用していた白いカプセルの中味は、一般の薬局で販売されている滋
養強壮剤だった。この市販薬は大変効能があると評判の滋養強壮剤だと聞いてい
るから、このような殺人事件で実際の商品名を取り上げてこの薬剤の用法になん
らかの誤解を与えることをはばかり、以降、実際の商品名ではなく、「A強壮剤」と
称することにする。

 A強壮剤は、なつ江が常用していた。いつころから服用をはじめたか確実なこと
はわからないが、なつ江の話では、私と知り合う以前に住んでいたアパートが豊島
区内にあったが、その近所のN薬局で勧められて服用をはじめたということだった。
よって、一九七二年ころには服用していたと思われる。なつ江が一時でも服用をや
めたのは、私、が知る限りでは、病院に入院していたときと、虎の門病院に第二回
目の入院をしたとき主治医から常用している薬について尋ねられ、A強壮剤の現物
を持っていき提示すると、念のためしばらく服用を中止するように言われて二カ月
ほど服用をやめたときで、それ以外なつ江は服用を欠かしたことはなかった。実家
の母親にも欠かさず送っていたことを考えると、なつ江はこの薬の効用を充分に信
じていたようだ。
A強壮剤は若干粘性のある液剤で、この液剤が六Oml、注入用のポリ容器に入
っている。それにOO号(容量0・九mg)の透明のカプセルが六O個ポリ容器に入って
一組となり箱に収められて市販されている。服用するときは、自分で注入用のポリ
容器からカプセルに液剤を注入して服用する。通常は一日に朝夕一カプセルずつ
二カプセル服用するから、一箱が一人の一カ月分になる。私もなつ江に勧められ
て同棲した一九八二年七月ころから服用するようになるが、私は通常の量ではの
ぼせるような感じがしてカプセルに六分めから八分めに入れて服用した。この薬は
臭気が強く、空腹時に飲むとにんにく臭に似たげっぷが出るので、私もなつ江もか
ならず食後に服用していた。
夕食をレストランなどで取ることがあり、その後寄り道をして帰りが遅くなるような
ときには、ベンザエースの空のカプセルご号、容量0・四八mg)を利用してカプセル
を二重にして持ち歩き、外食後に服用したこともある。そのために、二年ごとに新し
いものに取り替えたベンザエースは、中味を捨てカプセルだけを保存しておいた。
カプセルを二重にすると、二時間ほど外側のカプセルがふやけることなく持ち歩くこ
とができる。注入容器をハンドバックに入れて持ち歩くと臭気がハンドバックに移る
と言って敬遠し、なつ江は注入容器を持ち歩くことはなかった。
なつ江は、池袋のマンションSTに住むようになってからもN薬局とはすこし距があ
るが、A強壮剤はかならずN薬局から購入していた。私が服用するようになってから
は、私がカプセルに六分めから八分めに入れて服用するためカプセルが不足する
ことがある。そのときは、なつ江がN薬局から透明のカプセルを分けてもらっていた。

 なつ江が死亡してからは、私はA強壮剤を一切購入していない。なつ江が死亡し
たとき残っていたA強壮剤は、液剤は六OMが満杯に入った注入容器が一本、四
OMmlほど入った注入容器が一本、合わせて一OOml程度、透明のカプセルが五〇
個ほどだった。これを大阪に持っていき、なくなるまで服用することにする。
カプセルが不足する分はほかのカプセルを利用することにした。なつ江が常用し
ていた「パボランカプセル」は私が服用したことはなく、今後も服用することはないと
思い、この白いカプセル(O号、容量0・六七叫)を使用することにし、中味を捨ててカ
プセルだけ保存する。「パボランカプセル」(一二カプセル入り)は買い置きの七箱が
残っていたので、その白いカプセルは八O個ほどになる。それに「ベンザエース」の
白いカプセルが四O個ほど残っていた。

 
一九八六年一月二十日、大阪転居の際に大阪に持ち込んだA強壮剤の液剤と
カプセルの量は、液剤が、六Oml入り注入容器一本、四〇ml入り注入容器一本、カ
プセルが、透明のOO号のカプセル(容量〇.九五ml)五〇個ほど、白いO号カプセ
ル(容量0・六七ml)八O個ほど、白い一号カプセル(容量0・四八ml)四O個ほどで、カ
プセルは三本のポリ容器に入れ、注入容器二本と合わせて五本をビニール袋に入
れて持ち込んでいる。
大阪では私が気分的に体が疲れたと感じたときにたまに服用していたが、二月
十日入籍したころから利佐子も服用するようになる。しばらくしてから利佐子は夕食
後に毎日一回規則正しく服用するようになるが、私は相変わらず飲んだり飲まなか
ったり不規則だった。服用量は、私も利佐子も、00号カプセルを使うときは六分め
に入れ、O号カプセルのときは一杯に入れて服用する。
利佐子も臭気がきついと言って私と同じように食事後に服用するが、利佐子が
服用するのは夕食後と決まっていた。夕食を外食で済ませたときは、私から教わり
、カプセルを二重にして持ち歩き食事後に服用したことが幾度かあった。
A強壮剤の服用の効果について、なつ江のように効能書どおりにOO号のカプセ
ルを一杯にして一日二カプセルを毎日服用を続けるなら薬効がわかるのかもしな
いが、私のように、飲んだり飲まなかったり、それもO号カプセルを一個服用する程
度では薬効がわかるわけではなく私は気分的な問題だと考え、残っている液剤を
飲み終えるまで服用することにしていた。
利佐子は私と同じように一日に服用する量はO号カプセル一個だが、毎日飲み
はじめた効果が現れたのか、あるいは気分的なものだったのか、この栄養剤はよく
効くと言い出す。期日ははっきりした記憶がないが、多分、三月上旬だったと思う。
利佐子は東京で飲むといってA強壮剤を東京に持っていく。飲みかけの液剤が二
Oml程度入った注入容器一本と、O号および一号の白いカプセルをそれぞれ二O個
ほど、それにOO号の透明のカプセルを若干持っていった。

 
利佐子が東京でA強壮剤をどのような飲み方をしていたかは、利佐子から聞い
たことがなく私にはわからない。ただ、第一審の公判での利佐子の友人たちの証
言などから判断すると、利佐子は、池袋の自宅で夕食を取ったときはそのあとで、
外食のときは夕方外出前に池袋の自宅でA強壮剤を一号カプセルに注入しO号カ
プセルで二重にして持ち出し、夕食を済ませてから服用したと思われる。
私は利佐子から、東京に行ったときは外食か既製品を購入して食事は済ませて
いると聞いていた。利佐子が東京で白いカプセルを服用したところを四回友人たち
に目撃されているが、服用したときの状況から、その四回がすべて夕食後と判断で
きる。また、T氏は、「夕食後、利佐子はカプセル状の薬を二、二一個出し、その中
から白いカプセルを一個服用した。透明のカプセルもあったと思う」と証言している
から、利佐子は液剤をカプセルに注入してから夕食を済ませるまで二時間程度を
予定し、夕食の時聞がそれより延びてO号の白いカプセルがふやけだしたときは、
00号の透明のカプセルを使ってカプセルを三重にして持ち歩くことを予定していた
と思われる。

 
利佐子は友人たちにA強壮剤について、「夫が調合した栄養剤」などと言ってい
たと証言されている。大阪に転居したときは効能などが記載された箱は捨ててすで
になく、注入容器に効能が記載されていたかも忘れたが、私は利佐子にA強壮剤
は市販の滋養強壮剤であると話しであったから、利佐子、が市販の薬であることを
理解していないわけがなく、利佐子は友人たちに面白がって冗談を言っていたので
はないだろうか。
利佐子が飲みかけの注入容器を東京に持っていってからは、大阪では六Oml入
りの注入容器を開けて飲みはじめるが、四月下旬には飲み終わり、利佐子も東京
に滞在する日が多く、私も飲み続ける必要を感じないままにその後は購入しなかっ
た。利佐子が死亡したのちに池袋の自宅を整理したとき、液剤の若干入った注入
容器とカプセルを数個確認したが、カプセルの数量は数えていない。
 
31-8 引用文 P29-P42 高額生命保険加入の経緯
 
 五 高額生命保険加入の経緯
 
 なつ江との結婚がトリカブト殺人事件の全体像を動かす重要な役割を演ずるとは
、私は夢にも思わなかった。なつ江はこのあと発病し病院への入退院を繰り返すが
、その発病は、私が利佐子をトリカブト毒で殺害するためにその予備実験を毒物に
よって行ない、なつ江はそれによって発症したとされたのだ。要するに、この段階か
ら、私は高額な生命保険を詳取する目的で綿密な計画立てて実行をはじめたこと
になる。
なつ江を殺害する目的ではなく、なぜ予備実験とされたかは、生命保険の加入
状況にかかわると思われる。なつ江は、私と知り合う以前から保険外交員の女性
と懇意な付き合いがあった。私と婚約したころ、なつ江は付き合いの上ということで
、十年ほど前に加入していた数百万円の生命保険を一千万円に増額し、受取人
名義も母から私に変更した。そのとき、なつ江を受取人にして私も同額の生命保険
に加入している。この生命保険の加入手続きには、私はほとんどタッチしていない
。健康診断を受けた記憶も定かでない。最初の妻は生命保険に一切加入していな
かったから、この加入が、私が生命保険の加入を経験した最初といえる。
 
 この一千万円の生命保険金は、なつ江が死亡したとき私が受け取っている。それ
にもかかわらず判決は、保険金を受け取ることに味を占めたのではないかと表現し
たが、保険金を詐取する目的でなつ江を殺害したとは認定しなかった。
なぜかは明白なのだ。なつ江と婚約した当時、私は住宅ローンなどを差し引いた
純資産ベースで七千万円ほどの資産を保有していた。危ない橋を渡ってまで一千
万円の保険金を詐取するために、なつ江を殺害するなどということはありえないの
だ。まして、そのために結婚するなどということは考えられない。しかし、この時点か
ら、なつ江にトリカブト毒を服用させたと判決は認定するのだから、高額な生命保
険に加入させ利佐子を殺害するために、なつ江でも予備実験をしたと判定する以
外にないのだ。その予備実験の内容について判決がどのように描写しているかは
、次章で判決文を明記して詳しく触れることにしている。
 
 入籍したころから、二人は老後の生活について相談をはじめた。十三歳も年の違
う夫を持つ利佐子は、老後の生活に不安を感じていたようだ。利佐子は、年収一
千万円と言った私の触れ込みを信じ、物価の上昇などを考慮して、生涯、一千万
円ほどの収入を確保したいと希望を述べる。嘘が災いして私も同意さざるをえなか
った。
利佐子は、自分が加入していた終身保険の設計書を持ち出してくる。以前か
ら加入していた養老保険を、前年八月、日本生命の終身保険に切り替えたものだ
った。私と知り合う三カ月前だ。契約金額が二千三百万円で母親が受取人になっ
ていた。その設計書には、将来、年金保険に切り替えたときのおおよその年金額
がメモしてある。
利佐子は、その設計書を計算の基礎にして、私が終身保険に加入し、満期後、
年金として一千万円、終身、支払いが受けられるような保険に加入することを希望
した。その設計書を基礎にして計算すると、将来一千万円ほどの年金額を受け取
るためには、設計書の八倍、契約金額が一億八千四百万円になる計算だ。だが、
利佐子と年齢が違う私が加入した場合の支払保険料がわからない。
 
 この当時利佐子は、少額だが太陽生命の保険にも加入していた。結婚による名字
や住所の変更のために日本生命や太陽生命の外交員がよく出入りしていた。ど
の外交員に聞いたかは定かではないが、利佐子の調べたところでは、私が加入す
ると支払保険料は年額五百万円を超えるということだった。しかし、利佐子が加入
し、利佐子が六十歳になったときから年金を受け取るようにすると、支払保険料は
年額二百万円ほどで済むという。
私は、利佐子に、今年中に食品会社の設立を実現させ、そのときに私が経営者保
険に加入し、万が一の場合の利佐子への保障にすると話してあった。利佐子は、
支払保険料が二百万円なら年収の二O%だから支払いは可能だと一言って、老後
の保障はそれ一本に絞り、自分が加入すると言った。その代わり、経営者保険に
加入するまで、私が二億円の掛け捨ての定期保険に加入することを条件にする。
その支払保険料も年額二百万円ほどと調べであった。
私は年収一千万円と嘘をついたことを後悔しながらも、食品会社の設立準備の
企画書で私の年収を九百六十万円と計画していることから、会社が設立できれば
可能であると判断する。ただ、それまでが問題だった。私は保険の加入は会社を設
立してからにするように希望した。
利佐子は、年齢が一歳増すごとに支払保険料が上昇するから加入は早いほう
がいいと言い、さらに、私の定期保険の支払保険料は、会社が設立できるまで太
陽生命の満期保険金が入るからそれで負担すると言う。

 それなら、会社設立までに私が負担する支払保険料は利佐子の終身保険の数
カ月分、百万円をすこし出る程度だ。私はなんとでもなると思った。会社を設立して
からのことはそれから考えればいいと思い、利佐子の案に積極的に賛成した。
これらの相談がまとまるのに、およそ一カ月かかっている。三月下旬から手続き
に入った。まず打診をするつもりで、利佐子が加入している年金保険の設計書のコ
ピーを持って、私が一人でA社を訪れる。入り口でうろうろしていると女性外交員に
声をかけられた。事情を話すと喫茶店に連れていかれた。私は設計書のコピーを
渡して相談した。そのとき、無職の主婦の加入は契約保険金が五千万円を超える
と審査が非常に厳しくなり、加入できないことがあると知らされる。私は拙瑳に四社
に分けることを思いつく。外交員に、設計書の二倍四千六百万円で契約したいの
で設計書を作って近日中に自宅に来るよう依頼する。その女性外交員は、守口市
か、門真市か、記憶がもうひとつはっきりしないが、私に市会議員の名刺を渡し、
「この人の紹介で会ったことにしてくれ」と言う。名刺の裏には、「この人を紹介しま
す」と書いであったと思う。なぜなのか疑問に思ったが、言われるとおりにした。
私はA社を出ると設計書のコピーを三枚作り、支払保険料の自動振替用の銀行
口座を作って、B社、C社、D社とその日のうちに依頼して歩く。四月上旬、各社が
自宅を訪ねてきて契約を済ませる。その後、B社が契約を断ってきたためにE杜を
加えた。

 
公判で、年金保険ではなく、終身保険に加入したのが疑問だという主張があった
やはり公判で、当時、終身保険はもっとも新しい商品で他の保険からの切り換え
を積極的に進めていたと、ある保険会社の調査役が証言した。また、二年ほどあと
で知ったことだが、保険会社のなかには終身保険という商品がまだ開発されておら
ず、二つの保険を組み合わせて終身保険に見せかけていたところもあったようだ。
契約のとき、私や利佐子に年金保険についても説明したと主張するが、外交員
の成績は保険契約高で決まるというから、成績の上がる終身保険を排除してまで
年金保険を勧めたというのは疑わしい。まして、私も利佐子も、終身保険以外には
念頭になく、他の保険には興味を示していなかったのだからなおさらである。
さらに公判で、病気などのときに保障を受ける特約を付けなかったことについて
、特約を付けると登録されて他の保険に加入していることが知れるため特約を付
けなかったのだと主張された。しかし、利佐子が先に加入していた日本生命の終身
保険に特約が付いていたため、利佐子と相談して新しい終身保険には特約を付け
ないことにしたのだ。その日本生命の生命保険金は、利佐子の死後、実家に支
払いがあったと聞く。もし私に、他の生命保険への加入を知られたくないという意識
があったとしたら、日本生命の設計書などを四社に渡すことはしなかっただろう。
証言によると、A社の女性外交員は、利佐子に、遊んでいるなら一緒に保険会
社で働くように勧めて会社説明会に誘っている。また、E社の女性外交員は、利佐
子が飼っていたペルシヤ猫が子猫を生み、それをあげる話でよく連絡を取り合って
いた。そのような利佐子と外交員との関係を考えても、保険加入の経緯になにも不
審な点はないのだ。
 
利佐子は、大阪に転居してから体調を崩しはじめる。不眠や下痢などを訴え、よ
く寝汗をかくと言う。私は、利佐子が大阪の土地柄に馴染めないといつも話すこと
から、それが原因になっているのではと考えはじめる。二人とも大阪に友人知人は
いない。私は、利佐子の気分転換のために、利佐子を大阪や京都の繁華街や名
所旧跡を頻繁に連れ歩いた。しかし、一向によくならない。
利佐子にはやはり友人の多い東京が合うのかと思い、三月に入ると東京に行く
ことを勧める。ただ、猫を三匹飼っているため、その世話で二日以上二人が一緒に
自宅を空けることはできない。この猫は利佐子が東京から連れてきた。利佐子には
親子のようになついているが、私にはよく小便をひっかける。これが非常に臭い。
利佐子がいないと片足を上げてひゅうっと飛ばす、雄犬でもあるまいに。このころは
、利佐子より私のほうがよく面倒を見ているというのにだ。利佐子は、三月は二度
ほど東京に行き、行くと四、五日は泊まってくる。それで体調も大分回復したようだ
つた。四月は、月の半分ほど東京にいた。四月に入ると体の不調は訴えなくなる。
あとになって公判などで知ったことだが、利佐子はマージャン中毒と言われるほ
どマージャンが好きで、クラブに勤めていたころはほとんど毎晩、屈が終わるとジヤ
ン荘で徹夜でマージャンをしていたという。その根城にしていた雀荘が、池袋の自
宅から徒歩で五分というから、東京に帰ったときの利佐子は雀荘に入り浸っていた
のだろう。
さらに、クラブのバンドシンガーをしているT氏本人の公判での証言によると、私
と知り合う一年ほど前まで利佐子と同棲していたT氏、が利佐子と別れた理由は、
マージャンが原因だったと言うのだから、利佐子のジヤン荘通いは相当にひどかっ
たようだ。
また、T氏の証言では、大阪に転居してから、利佐子は、週に二、三度、電話でT
氏と会話をし、利佐子、が東京に帰るとT氏と会っていたというのだから、友人のい
ない大阪での生活が利佐子にとってどれほどの心の負担になっていたか思い知ら
される。
生命保険会社四社が、私に生命保険金の支払いを拒否した理由として、告知
義務違反を、挙げている。利佐子は、私と知り合う一年ほど前、自律神経失調症で
病院に通院していたという。それを告知していないというのだ。私はそれで納得した
。大阪での利佐子の症状は、自律神経失調症の再発だったと思われる。
利佐子が大阪で体調を崩したことについて、私がトリカブト毒を利佐子に服用さ
せたのだと検察官は主張した。しかし、事実は以上のとおりと言える。
 
大阪に転居してから私の経済状態はさらにひどくなる。私の浪費という病気は治
まっていない。婚約をしてからの私は、利佐子に高価な品物を送る。手持ちの資金
が一千万円程度だったからつぎつぎにとはいかない、が、ミンクのロングコlト、百万
円を超すエンゲージリング、有名ブランドの洋服などをプレゼントする。利佐子に気
に入られようと必死になるのだ。大阪に転居したころには、資金は半分以下に減っ
ていた。
売却を予定していた池袋のマンションは、利佐子が東京の本拠地としていたた
め手放すことができなくなり、二月に限度一杯まで抵当権をかけて借り入れを起こ
す。その資金でひと息つくが、それにも懲りず浪費は治まらない。四月にはサラ金
から借り入れをして、利佐子の両親を関西旅行に招待し、友人三人を招待して五
月に沖縄旅行を実行することを利佐子と約束する。利佐子には月五十万円の生
活費を渡していたが、それ以外にも家賃や東京への往復の旅費など、生活資金は
月百万円近くかかる。それに、利佐子の希望するものを買い与えるのだから、資金
が幾らあっても足りるはずがない。この時期も、自分自身のための浪費はほんのす
こしだ。利佐子を介したものがほとんどといえる。

 
九百万円なら売却できるという触れ込みだった宝石も、四月に三百八十万円の
代金しか受け取れず、私の経済状態は先行きの見通しが立たなくなる。それでも
私は、どうにかなるという気持ちが強かった。というよりも、利佐子の怒りを買うこと
が怖く、実情に目をつぶっていたのだ。
五月に入ると、経済の行き詰まりは目に見えてくる。さすがの私も夢から覚める
。私は、気持ちに思い切りをつけ、これからの生活の仕方を組み立てた。
東京に戻ろう。自宅のマンションを売却し、借入金を清算して裸になって出直す
のだ。会社に勤めて収入を得ながら、私の食品会社の企画に賛同する出資者を
探すことにする。食品会社を立ち上げるための企画は、詳細にできているのだ。無
に帰すのは惜しい。生命保険も、私の四社と利佐子の二社を解約すれば、保険料
の支払いの見通しはつく。
利佐子は、五月十九日からの沖縄旅行を楽しみにしている。予約もすべて済ま
せ、支払いも終わった。利佐子に話すのは、沖縄旅行から帰ってきてからでいい。
どう話すべきかっ事実をそのまま話すことだ。利佐子が私と苦労をともにしてくれる
と言うか、愛想を尽かして私から離れていくか、それは利佐子の判断に任せるほか
はない。
 
だが、利佐子は、沖縄旅行の途中、石垣島で二度と戻らぬ人となる。私が石垣
島に駆け付けたときはすでに冷蔵庫のなかで永久の眠りについていた。私は、利
佐子の冷たい唇に触れる。いま、そのときの気持ちが思い出せない。荘然自失? 
いや、それとも違う。思い出せないほど、まとまりのつかない複雑な気持ちに心は
満たされていたのだ。悲しみ?どの程度か覚えていない。涙のない悲しみつ確かに
そうだつた。だが、実母のときとは感情的に異質に思える。
高額な生命保険に加入していたことは、どのように感情を支配していただろう。
保険金の受け取りに、まったく期待は持たなかっただろうか。あのときはそれどころ
ではなかった。私にやましさ、がなくても、高額な生命保険に加入して約一カ月後に
妻が急死する。それだけでマスコミの餌食になり、世間で話題にされ、こそこそと生
きなければならなくなる。やましいことがなければ正々堂々としていればいいと言う
が、そんなものではない。それが証拠に、二カ月後の七月、心筋梗塞という死因が
くつがえされたわけでもないのに、一部のマスコミは顔写真入りの実名で、でかで
かと報道したのだ。

 
利佐子が死亡した日、私は八重山警察署の事情聴取を受ける。その席で、生命
保険の加入の事実を聞かれ、加入していないと嘘をつく。咽嵯に、保険の加入はな
かったことにしようと思ったのだ。隠しおおせるか否かなど、考える余裕はなかった。
池袋の自宅での通夜の目、利佐子の友人たちに激しく追及される。一部のマスコミ
関係者がマンションの下で控えていたと聞く。やはり、一部のマスコミ関係者が
出入りするなかで告別式は行なわれ、そのとき利佐子の友人の撮った私の顔写真
が、二カ月後、週刊誌に載ることになる。利佐子が死亡して一週間も経たないうち
にこの状態だった。生前、利佐子は、数人の友人に高額な生命保険の加入を話し
ていたという。
私は通夜の日から、三人の妻に死なれたことを深く思い悩んでいた。偶然とは、
神のいたずらなのだろうか。信仰を持たない私、が、このときばかりは神を罵倒し
た。三人の妻に死なれる確率など、年末ジャンボ宝くじの一等に当たるよりも確率
は高いなどと、根拠に乏しい慰めを言ったりしては、自らを納得させようとする。告
別式のあとのお清めの席で、利佐子の友人たちの非難の声が飛び交うなか、読経
をしてくれたお坊さんが、「私の知り合いで、五回、妻に死なれた人がいる。これも、
み仏のお心です。気を強く持ちなさい」と、言葉をかけてくれた。私はすこし気持ち
が安らいだ。
 
いまになって、私はよく考えることがある、利佐子を愛していたのだろうかと。正
直のところよくわからない。知り合ったころは夢中だった。愛というものが心の落ち
着きのなかで育つなら、あのときは、愛のはしりだったと思う。それが、利佐子の死
で、成熟しないうちに終わったのだ。成熟するにはあまりにも心の落ち着きのない
まま過ぎてしまった。
 
高額な生命保険の加入について、「食品会社の設立に必要なので加入する」と
私に説得されたと、利佐子は友人に話したそうですが、私は利佐子に、その様な
説得をしたことは一切ありません。
証人の供述だけに基づく証拠を伝聞証拠と言うそうですが、公判で私がこの伝
聞証拠を知ったとき、私の脳裏には次のような事情が浮かびました。生命保険の
加入申込みを、A社、B社、C社、D社と順次行いますが、利佐子と相談した当初
は、一社を予定していたのです。それが契約保険金の問題で四社に分割します。
もし私が伝聞証拠のような説得をしていたら、一社を四社になぜ分けなければな
らないのか、利佐子は当然疑問に思うでしょう。さらに、B社については、自宅で
外交員と加入申込みの契約を済ませ、二人ともB保険会社の健康診断を受けて
から保険契約を断られています。私の利佐子への説得が事実だとすれば、大変
おかしいことです。

 
今述べた事情から、利佐子は、説得の理由を納得するまで訊いてくるでしょう。
食品会社の設立のために加入するなら、生命保険会社と打ち合わせを行い加入
しますから、断られることなどありません。私は、食品会社の設立と、生命保険に
加入する関係など、理由を説明することは不可能です。惣菜の宅配業と生命保
険の加入、常識的に考えても、利佐子を納得させる理由は、見当さえつきません
。B社の替わりにE社を加え四社との保険契約が済んだのち、利佐子は、A社の
女性外交員に保険会社で働くように会社説明会に誘われていますし、E社の女
性外交員とは子猫をあげることでよく連絡を取り合っています。それだけ懇意にな
っているのですから、私の説得について納得するために、当然、女性外交員に聞
きただすでしょう。私が口止めしていたとしても、友人に話すぐらいですからなおさ
らです。しかし、女性外交員は、そのようなことを訊かれたとは一切供述していま
せんし、公判での外交員の証人尋問でもそのような証言はありません。
利佐子が加入していた日本生命の終身保険の設訂書は、裁判所も確認してい
ます。先ほど説明した「高額生命保険加入の経緯」 が実際で、日本生命の設計
書に基づいて加入したというのが事実です。利佐子が友人に話したという伝聞証
拠は、事実を違えた冗談から出た言葉だと思います。


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