事実の証明

心残りのまま永眠した 神谷 力 氏の手記。 トリカブト事件を冤罪と断定し、 判決の矛盾を鋭く指摘する。
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全文-23 (2013/02/12(火) 10:15:55)

2012.02.15

 全文-23
 
 三 私の女性観と恭子との結婚

 山鳩の鳴き声や小鳥のさえずりで私は目を覚まします。毎朝、爽やかな気持ち

で布団を畳める拘置所の自然が、沈みがちな心を支えていました。子供のころ、

杜の都の広瀬川のほとりで育った私は、この自然の目覚まし時計は珍しいことで

はありません。育った自然環境はすばらしいものでしたが、家庭環境は望ましい

ものではありませんでした。その家庭環境が私の女性観を心に植え付け、現在に

至っています。その女性観について話すことをお許しください。

 戦後父は東北大学工学部教授の職を辞して、革新政党の活動に身を投じます。

私が小学三年のとき、父は占領軍の弾圧を受け、いわれのない政治犯として、自

由を奪われる身となります。実母は、教授夫人から一転して貧しい立場に追い込

まれ、働きながら私を育てます。母は寂しさから、六歳ほど年下の男性Yに身も心

も移しました。小学五年のとき、講和条約が発効し自由の身となった父は、母を

心を込めて説得しますが、母は家庭を捨ててYのもとに走ります。ですが、遊びに

すぎなかったYに、けんもほろろに跳ね返されます。

 母が多量の睡眠薬を飲み自宅で深い眠りについていたとき、唇にひび割れしな

いように脱脂綿に水を浸して母の唇を湿していた私は、東京に働きに出ていた五

歳年上の兄が戻ってきて、父と隣室で相談しているのを聞いてしまい、母の自殺

がYの無責任さにあることを知り、Yへの怒りが込み上げてきます。意識が戻るこ

とを心待ちにした私の願いもむなしく、二日ほど苦しんだ母は、私に見守られなが

ら息を引き取りました。兄は外出し、父は台所で夕食の支度をしているときです。

私は涙を一切流していません。涙さえ浮かばぬほど、私は悲傷に打ち拉がれて

いたのです。

母とYとの寝室のなかでの出来事を、幾度となく、目にし耳にしていた私は、嫌も

応もなく、ませていました。母の死後、父も兄も革新政党の活動で、支持者の寄

付に頼る生活費では私を育てられません。小学五年の終業のとき、県北の他人

の経営する工場に住み込み、働きながら学校に通う三年間の生活がはじまりま

す。母の死はYに振られたのが原因なのか? いや、それだけではない、出来の

悪い私に悲観したのだ。私の自問自答は続きました。しかし、自問自答の結果

は、Yが、母をもてあそんだことにあるのだという結論に達します。私は、生涯、Y

のような無責任な女性との交際は行わないと決心しました。私の女性観の萌芽で

す。中学三年のはじめに父のもとに戻った私は、心の通い合う義母に恵まれたこ

ともあり、過ぎゆく年月のなかで、実母の死の痛手から解放されます。

 最初の妻二一歳の恭子と結婚したのは、私が二五歳のときでした。

私は革新政党の党員として東京の北部地域で活動を行い、私の住居の近くに住

み埼玉県の大病院に看護婦として勤めていた恭子を知り、説得して入党させ、党

活動のなかで心が通い合い結婚します。恭子は子供のころ継父のいじめのなか

で育ち、その反動で、私への信頼、甘え、依存など、私の望む女性観を満たして

いました。結婚七年目に、共に、党活動の実体に感情的疑問を抱き、二人は党を

離れます。それからの私たちは、頻繁に旅行に行くなど、妻の喜びの笑顔を得る

ために、私は恭子が戸惑うほどの、さまざまな努力を重ねます。私の女性観の実

践でした。

 しかし、思わぬ落とし穴がありました。私は二五歳で結婚するまで、男女の性行

為については限りなくすばらしいものと想像していました。しかし、夫も初めての性

行為、妻も初めての行為では、うまく運ぶはずがありません。最初のつまづきがそ

の後も尾を引いて、想像していた満足感は得られず、試行錯誤を続けるなかで性

生活に自信を失います。結婚するまでの私は、若い男性のご多分に漏れず、性

行為への欲求は強く、自らの慰めで紛らわせ、結婚相手以外との性行為は、私

の女性観としての信念に合わないとねじ伏せていました。それが結婚八年目に、

実母の死から学んだはずの信念を踏みにじり、ついに私はほかの女性、なつ江

に手をつけてしまいます。

 恭子と結婚して二年目に、足立区の二KDの住宅公団に当選し住居とします。

その数年後、恭子が知人からチワワ犬を貰い、犬好きの私と共に買いはじめま

す。なつ江と知り合ったのは、私が党活動をやめて、最初に六か月間勤めた会社

です。恭子は党関係の病院を退職し、まだ再就職せずに自宅に居ました。なつ江

がチワワ犬を見たいというので、恭子に電話で同僚を連れていくと連絡します。終

業後、なつ江を自宅に伴うと、「急に誘われて調布に行くことになった」 との置き

手紙と、二人分の食事が用意されていました。調布の恭子の叔父の家には、私

たちはよく家庭マージャンをしに行きますが、同僚が男性だと思い、遠慮せず出

かけたのでしょう。その夜遅くなるまでなつ江はチワワと遊び、私は信念がほころ

びて、なつ江と性的関係を持ってしまいます。私の人生は、この日から、安らかな

日から、悔恨の日々に変わりました。一九七二年十一月の冬が近づく寒い夜のこ

とです。

 なつ江との一か月ほどの性行為で得たものは、私の性について の想像がい

かに頭でっかちであったかということです。男性との性経験が数年に及ぶと聞い

ていたなつ江の反応が、恭子よりもさらに小さかったのです。なつ江との関係は、

なつ江の親族が私の自宅に押し掛けてくることによって、恭子に知られてしまいま

す。恭子の嘆きがいかに強かったか、団地のそばを通る電車の線路際を長

時間うろついていて、近所の人に保護されたこともあります。その後夫婦の生活

はしだいに回復していきますが、私が恭子に望む、信頼、甘え、依存は、恭子が

死亡する八年後まで回復しませんでした。

 なつ江はその後故郷の実家に帰りますが、二年ほどで東京に戻り私を頼りま

す。私の優柔不断さは、女性観の裏返しなのですが、なつ江の願いを断ることが

できず、私の犯した罪の慰謝料のつもりで、住まいを世話し当座の生活資金を与

えます。さらに、西池袋の新築中のマンションを三千万円で購入し、慰謝料として

なつ江に贈与することで別れることをなつ江に約束させます。贈与税を免れるた

めに経理の実務経験の長いなつ江に就職を指示し、私の預金を担保にして、な

つ江に住宅ローンを組ませることを検討しますが、なつ江が就職しないうちにマン

ションが完成し私の名義で購入してしまいます。入居後のなつ江は、就職口も探

さず私の提供する資金で生活を続け、購入する衣類や装身具などもしだいに高

級品へと変化していきました。和つぃは、優柔不断さというより、この事実を恭子

に知られることが恐ろしかったのです。贈与税を免れる方法を見い出せないまま、

なつ江との関係が解消できずに年月が過ぎてしまいます。

 恭子は詮索することの大嫌いな女性でした。なつ江との不倫のあとでも、私の

行動に、日心を差し挟む言辞は一切していません。私は女性観の核心である信

頼、甘え、依存は失いましたが、子供のころの惨めさを補うための寄り添う心は、

恭子から常に感じていました。結婚後、党活動や職場の慰安旅行以外、恭子を

自宅に一人にして外泊したこと一切はありません。恭子は一人でいることは耐え

られない、かわいい女性でした。私の不倫による、恭子の深い孤独の心境を、少

しでも修復したい私は、恭子と約束をします。午前0時を過ぎて帰宅したときは罰

金千円、一〇分過ぎるごとに千円加算すると。恭子は午前0時近くになると、玄

関の前で待ちます。私が午前0時過ぎに玄関に入ると、恭子は「やった!」 

と言ってにっこりします。罰金のあるなしにかかわらず、毎夜、心の温まる笑みを

浮かべて、「お帰りなさい」 と言って私を出迎えます。その笑みは、恭子がこの世

を去るまで続きました。恭子は私の生き甲斐でした。



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