事実の証明

心残りのまま永眠した 神谷 力 氏の手記。 トリカブト事件を冤罪と断定し、 判決の矛盾を鋭く指摘する。
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全文-15 (2013/02/02(土) 18:30:22)
2011.12.16

 全文-15

 第三一回公判において、トリカブトの産地と成分比率などについて、M教授の依頼
で鑑定書を提出した千葉大学のS教授は、長年にわたるトリカブト毒の研究にもとづ
き、トリカブト毒の抽出にかかわる証言をしています。この公判で、私はS教授に直接
質問することを許可されます。私の関心は、カプセルに詰められるトリカブト毒を含む
水飴状物質の量と、それに含まれる毒量の問題です。

 共同鑑定書からメモをとって私が計算した結果では、M教授が自ら抽出・濃縮した
「共同鑑定書」 の三一個の鑑定結果は、「水飴状物質の収量は、乾燥根1g当たり
平均で約二二五mg、その毒量は約二.六mg」 です。Y警部補が抽出・濃縮し、M教
授が鑑定した「Y鑑定書」 の五個の鑑定結果は、「水飴状物質の収量は、乾燥根一g
当たり平均で約四七mg、その毒量は約三.六mg」 です。毒量は塊根ごとに違いが
あり、Y鑑定書の塊根は毒量の多いものだったと考えれば問題ありません。問題なの
は、水飴状物質の収量です。共同鑑定書の約二二五mgに対して、Y鑑定書は
約四七mgで、五分の一ほどです。同じカプセルに、Y鑑定書は共同鑑定書の約五倍
の毒量が詰められることになります。

 この違いは何が原因なのか、私はS教授に質問します。共同鑑定書が溶媒にメタノール
を使用し、Y鑑定書がエタノールを使用していること、塊根は乾燥根と生根であることなど、
抽出・濃縮方法を具体的で詳細に説明します。
 
 この二つの抽出・濃縮方法の効率について、S教授は、「アルコールの抽出方法は、ほとんど
すべてのものがアルコール抽出エキスとして取れる。メタノールがエタノールより抽出効率は
いいが、生根からの抽出では、生根から水が溶出してエタノールに水が含まれ、抽出効率が
良くなり、抽出効率はメタノールと大差がない」と証言しています。また、アルコールだけで、
トリカブト毒だけをより多く選択的に抽出できるかという質問に、S教授は 「困難だ」 と答えます。
更に、両抽出方法の違いによって水飴状物質の収量に大幅な差が出るかと質問しますが、
「そう差がないが、抽出に時間をかけたY鑑定書が多分たくさん抽出されてると思う」 と答えます。

 共同鑑定書とY鑑定書の鑑定結果を比較すると、乾燥根に換算して一gの塊根か
らの水飴状物質の収量が、共同鑑定書が約二二五mg、Y鑑定書が約四七mgです。
S教授の証言では、抽出に時間を掛けたY鑑定書が、水飴状物質の収量が多くなる
はずですが、実際には、収量は、Y鑑定書が共同鑑定書の五分の一です。この収量
に含まれる毒量は、塊根に含まれる毒量の違いを無視すれば、同量です。このことが
同じカプセルに、Y鑑定書が共同鑑定書の五倍の毒量が詰められる結果を生むの
です。S教授の証言から考えて、その原因は、溶媒の違いにあると私は判断します。
M教授自から抽出・濃縮した共同鑑定書の溶媒のメタノールは、教授の立場を考え
ると間違いはないと思いますので、Y警部補が抽出・濃縮したY鑑定書の溶媒がエタ
ノールではなく、他の溶媒を使用した可能性を私は推測します。Y鑑定書は私は見た
ことがなく、M教授の証言を聞いただけですので、推測の域を出ていません。次回の
公判でM教授が証言しますので、そのとき納得できるまで質問することにしています。

 千葉大学のS教授への抽出効率についての質問が終わって、私は、予定していた
二つの問題の質問をはじめることにしました。一つは前回の公判で裁判所に提出し
裁判官に無視された、「利佐子のトリカブト毒の体内総毒量の動態のグラフ」 を示し
て、致死量に至っても発症していない不思議を、どう判断するかの意見を求めること
です。もう一つは植物毒と動物毒の違いはあっても、アルコール抽出方法に専門的知
識と経験があれば、「フグの肝臓一〇gから、メタノールを溶媒として抽出・濃縮したど
ろどろ状物質の収量」 がどの程度になるか判断がつくと思い、大まかに推定してもら
うことでした。

 この二つの問題は、私の無罪を立証するする証拠として重要な意義を持つもので
すが、質問をはじめたところ、即、検察官の「異議申し立て」 があり、二つの問題とも
あっけなく葬られます。
一九九四年三月一四日の第三二回公判は、M教授が出廷する最後の公判です。
わたしのM教授に対する質問は、鑑定書やM教授の証言の矛盾点を鋭くえぐる、
これまでにない圧巻なものとなるはずでした。気負う気持ちを抑えて質問を続けます
が、まともな答えは返ってきません。そのうちに、気負う気持ちを抑えて質問すること
が、かえって自分の気持ちを白けさせます。公判の雰囲気から、私が浮き上がってし
まうのです。

 僭越ですが、私の裁判を、上演中の素人歌舞伎にたとえてみました。私は、黒子が
しゃしゃり出て演技をするような、ばつの合わない心境に陥ります。この歌舞伎の多く
の観客の中に、演出者である裁判官が席を占め、劇の筋立ては演出の繰り返しで熟
知してます。演出者は、芝居の節目で、演技の出来映えを心に留め、終演後、全体の
演技を評価して、その善し悪しを公表しなければなりません。役者の多くは出入りの
証人が務めます。主役は検察官ですが、脇役である証人を引き連れて、舞台に登場
し演技を行います。

 私は黒子として、舞台の隅で目立たぬように、主役に準ずる弁護人の演技を後見
しています。素人歌舞伎の黒子など、歌舞伎座などの一流どころの、舞台配置をまね
た置物です。演出者との話し合いもなく、脚本も求められず、目を通すこともできませ
ん。劇の進行にともない演出者の顔色をうかがいながら、黒子の惨めな立場を認識
していくことになります。
黒子にも、劇の進行にともなう、心の動きがあるのです。後見している準主役と、脇
役との演技が噛み合わず、混乱などしたとき、黒子自身が飛び出して演技をしたくな
ることもあります。心の動きが、体の動きを伴うのは、主に、主役の大根役者のような
演技と。脇役の演技の絡みが、馴れ合いに終始したときです。私は、主役の検察官を
無視して、相手にされないことを知りながら脇役の証人に、演技のまずさを伝えるた
めに、実際に体を動かして演技をして見せますが、脇役のとぼけた表情と、観客の笑
いを誘うだけです。

 劇の筋立ては開演のときからすでに決まっていて、演出者は役者の演技を見たい
のであって、黒子の演技など見る気はなく、冷たく黙殺します。それでも、黒子は冷静
さを装って演技を重ねます。それ以外に黒子には、観客を納得させる方法がなかった
のです。黒子がしゃしゃり出て、舞台で役者に代わって演技をするなどということは、
観客の笑いを買っても、それは失笑にすぎません。劇場の中で、独り浮き上がってし
まった存在であることに気がついた黒子は、舞台の中央で呆然と立ちすくみ、演技を
やめ、口を閉ざします。

 私は肝心な質問に踏み込むこともなく、M教授への質問をやめてしまいます。いま
にして思えば残念なことで、M教授の矛盾した証言について、M教授の答えがたとえ
言い訳であっても、言質を取っておくべきだったと公開します。公判に臨む被告人の
心境の微妙な揺るぎを、切実に思い知らされた出来事でした。

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