事実の証明

心残りのまま永眠した 神谷 力 氏の手記。 トリカブト事件を冤罪と断定し、 判決の矛盾を鋭く指摘する。
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全文-04 (2013/01/19(土) 08:47:21)
2011.10.26

第四回

 一時十五分ホテルに到着します。そのときに大量の汗をかいていたとの友人の証
言があります。ホテルのチェックインの手続きは、四人を代表して利佐子が行いまし
た。利佐子は書類にきちんと記入し、はきはきした態度で、何の異常も認められなか
ったと、応対したホテルの係員は証言しています。友人たちも同じ証言です。
ホテルはコッテージ方式で、客室はそれぞれ別棟になっています。チェックインを終
えてカウンターのある建物を出て、小道を客室に向かって歩いている途中、午後一時
二十七分、客室の手前で突然吐き気を訴えます。客室に駆け込むなり嘔吐しますが
、胃液様の物を若干吐いただけです。その後、ベッドに横になり、冷や汗、嘔吐、手の
痺れ等を訴え、症状は急激に悪化します。

 午後二時三分、救急車でホテルを出ます。救急車の車内では意識も晴明で、救急
隊員の質問に、「変わった物は別に食べていない。朝食でコーヒーとパンを少し食べ
ただけ」などと、はっきりした口調で答えています。
午後二時十分ころ救急車内で、突然、呼吸と心臓が停止します。二時十二分ころ
心肺停止のまま病院に到着し、蘇生のための治療を受けますが、一度も蘇生するこ
となく午後三時4分。死亡が確認されます。旅先での急死のため、翌日行政解剖が行われ、
死体検案書に死因は心筋梗塞と記載されました。

 利佐子の保存された血液からトリカブト毒が検出されたということが、なにを物語るか。
血液の検出から四年後に逮捕されますが、なぜ四年のあそびがあったのでしょう。
利佐子の死から逮捕までの経過をたどります。

 生前、利佐子は、数人の友人に高額な生命保険の加入を話していました。池袋の
自宅での通夜の日、利佐子の友人たちに私は激しく追求されます。一部のマスコミ関
係者が、取材のためにマンションの下で控えていると聞きました。告別式は、マスコミ
関係者が出入りするなかで葬儀場で行われます。そのとき利佐子の友人の撮った私
の顔写真が、二ヶ月後、目隠しなどのない素顔のまま、実名を明らかにした記事とと
もに、後に廃刊となる写真週刊誌に掲載されます。

 告別式から一ヶ月ほど経ったある日、引っ越し準備中の大阪のマンションに、利佐
子の友人から依頼されたと言って、スポーツ系の新聞社のO記者が、取材のために
私を訪ねてきます。私は質問にていねいに答えます。七月だったと記憶してますが、
その日刊紙に、私を中傷する記事が連載されます。O記者は、一審判決が出たあと
で、拘置所在住の私に対して、勝利宣言のような追い討ちの手紙をよこします。連載
した記事に、よほど自信があったのでしょう。

 写真週刊誌と日刊紙の、殺人疑惑を全面に掲げた報道以来、外出のときの電車内
に、私の事件を記事にしたことを伝える、週刊誌の宙吊り広告を見かけるようになりま
す。私はすぐ目をそらしますが、また目線を向けてしまいます。一部のマスコミによる
私の事件の報道は、利佐子の保存血液から、トリカブト毒が検出されたとの証言が
あるまでの約四年間、散発的ですが途絶えずに続きました。

 利佐子の葬儀を終えて七か月後、一九八六年一二月、私は新聞広告の求人募集
欄を見て応募し、採用されて会社勤めを始めます。会社で経理部に所属した私は、仕
事に熱中します。会社は株式を店頭登録によって一般公開し、米国と台湾に子会社
を持つ従業員六百人ほど、年間売上約一〇〇億円の製造販売会社です。企業会計
人として腕を振るうには、私にとって最適の企業でした。私の事件についても、会社の
トップに正直に話し、仕事をおろそかにしなければそれでいい、との了解を得ます。
海外の二つの子会社との連結決算は、私の未知の分野ですが、それだけに強い興
味がわき、精力的に勉強しました。入社以来、日夜を分かたず奮闘し、総菜会社設立
の望みは、遠い存在となります。
 
 私の年収は、残業手当なども含めると七百万円ほどでした。他の借金は全て清算
しましたが、親族に残している約五百万円の借入金を返済するために、家計を月十
万円程度に切りつめて預金をしました。住まいは、世話になっていた横浜の両親のも
とから、就職後すぐに、会社のある東京都足立区に、家賃四万円のアパートを借りて
引っ越します。質素な生活を一年ほど続けて返済資金が貯まると、困った習癖が芽を
出しました。同僚と地元のミニクラブに飲みに行ったことが切っ掛けとなり、ふたたび
銀座などに飲みに行くようになります。

 入社して一年三か月後の一九八八年三月、前任者の常務取締役部長が健康上の
理由で退職し、都市銀行の支店長を定年退職して就任していた経理部長も、高齢で
嘱託となっていたために、私が総務部長兼経理部長に抜擢され、事務部門の統括を
一手に引き受けることになりました。
一日四,五時間の睡眠時間で、私は仕事をこなしました。旧態依然とした経理シス
テムを、新しいシステムに組み替えます。二年ほど前に開業した台湾子会社の操業
が本格的となり、海外連結決算を有価証券報告書に記載して、大蔵省に報告するこ
とが義務となると、そのシステム作りに苦心します。会計監査に来る公認会計士の指
導を受けながらの海外連結決算のシステム作りは、産業界でも未知の問題が多く、
一生をかける仕事として充分に価値があるものでした。決算期には、米国、台湾と海
外子会社への出張を繰り返しながら、海外連結決算のコンピューターによるシステム
化を図り、処理基準の作成に熱中します。この分野の勉学に身を入れ、わずかしかな
い専門書を読みあさりますが、体系的な理論書はなく、自ら理論の体系化を進めるな
ど、ゆくゆくは、この道の専門家となることを目標とします。

 部長就任当時は、総菜会社の設立に、わずかですがまだ色気がありました。その
色気も、海外連結決算の魅力にはとても及びません。すでに病人食の宅配業も現れ
、コンビニエンスストアが整備されるなど、食品業界は日進月歩です。部長就任後二
年くらいのあいだに、総菜会社へのこだわりは完全に消えてしまいます。

 企業会計人としては経済の感覚は優れているはずなのですが、なぜか、私生活で
は経済的な感覚は希薄になります。将来の生活を支えるために、職権を利用して不
正で得た資金でしたが、衝動的に浪費の悪癖が頭をもたげ、女性の嬉しそうな顔が
見たさに、またもや銀座などを飲み歩き、浪費を重ねます会社の椅子に、尻が張り付
くほど忙しいのですが、睡眠の時間を削ってまで、無意義な時間を作ります。不正で
得た資金は手元にとどまらず、銀座のクラブなどをはじめとする飲食店や高級ブティ
ック、それに、心にかなう女性のふところを目指して飛んでいきました。

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