事実の証明

心残りのまま永眠した 神谷 力 氏の手記。 トリカブト事件を冤罪と断定し、 判決の矛盾を鋭く指摘する。
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全文-29 (2013/02/17(日) 08:59:20)
2012.03.22

 全文-29
 
 一九八一年七月、恭子が心筋梗塞でこの世を去ったとき、なつ江は「奥さんに
済まない」 と言って電話口で泣き崩れました。私はそのとき、なつ江の真情を初
めて知ります。なつ江は死んだ恭子への悔やみのためか、数ヶ月のあいだ私をマ
ンションの部屋に入れてくれません。私も強いてなつ江に会う気になれず、しばら
く電話でのやりとりが続きます。不倫を犯した日以来、私はなつ江の住むマンショ
ンに泊まったことがありません。十一月ころから部屋に入れてくれますが、なつ江
は、「奥さんが亡くなったからといって、簡単に泊まる気にならないで」 と言い泊
めてはくれませんでした。

 十二月、私は不徳の行為を詫びるために、なつ江を自家用車で送りがてら群
馬の実家へ一緒に行きました。このとき、なつ江は実家で体調を崩し、国立沼田
病院で診察を受け心電図に軽い異常が見られます。心配から私も実家に泊まり
ますが、それが切っ掛けとなり、その後はときどきマンションにも泊めてくれるよう
になります。なつ江の心電図異常は、私にとって大変ショックでした。恭子を心臓
病から守れなかった私の苦渋が、なつ江は守らなければという心情となります。
独りで居るのが寂しくて仕方がないという気持ちも強く、翌一九八二年三月、なつ
江に結婚を申し込み、なつ江は、死亡した恭子の一周忌が過ぎてから入籍すると
いう約束で結婚を承諾します。

 
なつ江との結婚生活は、戸惑いからはじまりました。なつ江は、八歳年上の私
を「じじい」 と呼びます。私は、「はい」 と答えます。一九八二年六月、なつ江は
自宅で発病し、虎の門病院に第一回目の入院をします。この発病のあとすぐに同
棲し、十月に入籍 しました。自分の生活の基盤がやっと固まったことに安心した
のか、ときには、なつ江は私を召使いのように扱います。態度には現しませんでし
たが、最初のうちは気持ちの上で反発していた私も、しだいになつ江の心情がわ
かるようになります。不倫の相手という立場で、長いあいだつらい生活を強いられ
ていたなつ江は、それまで鬱積していた甘えという行為で思いきり私にぶつけて
いたのです。それを知って私は、それを知って私は、なつ江が気持ちのとおりに振
る舞うことを黙認します。結婚当初は愛情よりもむしろ不徳の行為への償いの気
持ちが強かった私は、日ごとになつ江への愛情が心を満たしていきます。

 
子供を作ることは、病気が全快してからというのが二人の約束です。なつ江は
基礎体温表をこまめに付けて、夫婦生活には大変気を使っていました。自分の病
気が早期に治ると思っていたなつ江は、病気のあいだの気分転換だと言って、気
持ちに任せて高価な宝石や毛皮のコート、それに高級な和服などを購入します。
体調の良いときは、二人でよく旅行にも行きました。なつ江の療養生活は三年続
きますが、一九八五年九月、実家で再発し、地元の金海循環器科病院で帰らぬ
人となります。なつ江の死は、私に激しいショックを与えます。最近二度の入院の
ときと同じように、一日か二日で回復すると信じていたからです。葬儀を終えるま
では気を強く保っていましたが、その後一か月ほどは放心状態で過ごしました。
 
 なつ江の四九日の法要を済ませたその翌日、私は自宅から徒歩で5分ほどの
西池袋のKクラブに立ち寄ります。地元で飲むのは初めてでした。その店で私の
席を利佐子が担当し、翌日、食事に誘われます。Kクラブのすぐそばにある小料
理屋で待ち合わせ、利佐子は紺地に花柄をあしらった和服で現れます。気の強さ
を感じさせるようなすこし癖のある顔立ちですが、美人です。落ち着きも感じられ
ます。前の日、騒がしい店内で見た洋装姿の利佐子とは印象が違いました。和服
姿はその後店内で一度見たきりで、日常生活で着ているのを見たことはありませ
ん。クラブ勤めの仕事着だったようです。幾度か食事をするうちに、利佐子はホス
テス業を辞めたいと言います。私は、十三歳年下のこの美しい女性が、まさか! 
と思いますが、期待に胸が膨らみました。

 私は
寂しさが募っていました。この若い女性と結婚し子供でも育てることができ
たら、二人の妻の死の痛手から、立ち直れるのではないか、その様な希望を持ち
ながら、利佐子との会話は深まっていきます。なつ江に死なれてまだ二か月ほど
しか経っていません。それにもかかわらず再婚相手を心に描くとは、常識的に許
されることではありません。私はそのことを充分にわかっていました。ですが、この
ように美しい若い女性に巡り会える機会は、二度とないと思えました。子供を産ん
で育てるにも、年齢的にまだ充分に適応できます。子供の居る楽しい家庭生活を
思うとき、私の脳裏には不道徳な行為だという感覚は消えていました。子育てへ
のあこがれは、なにものにも変え難い強さで、私を利佐子へ押し出します。

 
利佐子はホステス業を廃業し、私と大阪に移り住みます。三匹の猫の激しい干
渉にもめげず、利佐子が大阪に居るときは、私は夫婦のいとなみのため、毎夜、
猫と利佐子の寝ている寝室に通います。そのうちに、利佐子の私を見る目より、
猫を見る目に温かみを感じます。懐妊しないことへのいらだちが、私をいじけた気
持ちにしたのかもしれません。利佐子にとって私は愛する対象ではなく、生活を支
える土台にすぎないのではないかと疑いはじめます。利佐子が東京に行ったと
き、なにをしているか私にはわかりませんし、詮索する気にもなれませんでした。
それでも、利佐子の愛情を独り占めにしたいため、利佐子の希望は次つぎにかな
えようとします。しかし、いま考えると、四月に入り利佐子が月の半分も東京に行
っていても、私は寂しさを感じなかったのは、やはり、私の心の中で、愛はそれほ
ど育っていなかったのだと思います。利佐子が死亡したときのあの複雑な感情は
、それが影響したのでしょうか。

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全文-30 (2013/02/17(日) 08:59:41)
2012.03.27

 全文-30
 
大阪に転居したとき、子供が欲しかった私は、利佐子に、常用していたピルの
服用をやめるように頼みました。五月二十日、八重山警察署の事情聴取で、警
察官から利佐子がピルを所持していたと聞いたとき、気が動転し、知っていたと、
強がりを言った覚えがあります。そのときの、なんともいえない複雑な気持ちは、
しばらく続きました。その気持ちが薄れていったのは、利佐子の青森の実家で行
われた法事の席で、医師をしている利佐子の親戚の方が、タバコとピルと、心筋
梗塞との因果関係について話されたときです。

 
利佐子は、タバコを一日四十本ほど吸うヘビースモーカーでした。それに避妊
用ピルを長いこと常用しています。その医師の方は、「三十歳代の女性の心筋梗
塞になる率は、ヘビースモーカーがピルを常用していると、通常の七倍であるとい
う統計がある」 という主旨の話をしました。恭子もなつ江もタバコは吸いませんで
したが、私が銀座に飲みに行ったとき、ヘビースモーカーの女性は多く見かけて
いましたので、利佐子にタバコを控えるようには言えませんでした。せめて、ピル
の服用を続けていたことに気がつき、私がやめさせる努力をすべきだったと残念
に思います。

 
私の遊びとはなんだったのか、よく考えることがあります。銀座に飲みに行くこ
とは、女性の喜びの笑顔を見たい真剣な気持ちからで、遊びではありません。私
は五十一歳で逮捕されるまで、ソープランドをはじめとして金銭で女性の肉体を
買ったことは一度もありません。賭事としてのマージャン、競馬、競輪、競艇もした
ことは一度もありません。ゴルフもできません。パチンコは嫌いです。では、遊びと
はなんなのか、結論は、妻との旅行の楽しさ、それに尽きます。そのとき子供が加
わったら、遊びの楽しみは倍増したでしょう。私の三人の妻との子育てへのあこがれは、
それぞれ事情は違いますが成就し
ませんでした。子供欲しさからの非常識な行為は、
二度と行わないと心に誓い、
一か月ほどのちに、私は大阪市福島区の病院で
パイプカットをします。熟考して
の決断でしたが、子育てへのあこがれを捨て去るには、
寂しい痛みが伴いまし
た。
 
第三章       疑惑にまつわる問題の実際のすがた
 
 一 自署 『仕組まれた無期懲役』 の紹介
 
 『仕組まれた無期懲役』 の表題は、出版元の「株式会社かや書房」 (東京都
千代田区神田神保町一-二〇、電話〇三-三二九一-二六二〇)の経営者が
付けてくれました。。本書(定価二千円+税、三七九ページ) では「獄中記」 と呼
び表していますが、二〇〇一年の執筆中は表題が決まらず憂慮していました。二
〇〇二年六月に本書が出版され、私の手元に届いたとき、表題を見て私は感激
しました。表題が私の気持ちにぴったりだったのです。被告人の悔悟の実録は売
れますが、無実を主張する作品は売れないのが実情のようです。本書も例外で
はなく、私の無理なお願いを赤字覚悟で引き受けて下さった出版元には、多大な
負担をおかけしました。

 
本書は、上告趣意書および補充書での私の主張を要約し原審の判決に系統
的な反論を加え、拘置所での日々の生活と心境を物語って居ますが、いま記述し
ている当文書とはまた違った、書物に表したわかりやすさがあると思います。私が
本書を手にした時は、すでに受刑者として刑務所に収容されており、出版元とは
直接連絡が取れず、その後十年が経過しており、在庫の状況はわかりませんが
、興味のある方は購入してぜひお読みいただければ幸いです。
『仕組まれた無期懲役』 の原稿を書き上げた二〇〇二年の正月は、希望に満
たされて迎えました。本書の原稿を書きながら、上告趣意書を読み返していくうち
に、無罪以外にありえないと言う確信が強まったからです。

 上告審は五名の裁判
官で構成されるのが常ですが、私の事件を審理する第一
小法廷は、二年ほど前
から四名の裁判官で構成されていました。毎月十三日に、
最高裁判所から「拘留
延期決定通知」 という書類が届くのでわかります。一月
十三日の書類も四名連
記でしたので、審理が遅れているのはそれが原因かと思い、
決定はまだ先かと考
えていたところ、二月十三日の書類で五名になりました。
いよいよ審理が本格化
すると思っていた矢先、二月二十日付の「五名全員一致による」
という判決文が
届きます。私の上告趣意書を詳細に検討するには、相当の日数を要する
はずで
すが、一名の裁判官は充分な審理をせずに判決を下したと思います。最高裁判
所とはそういうところか、というのが私の判決への感想です。八十五万字に及ぶ
上告趣意書の私の主張の主旨は、原判決の事実誤認の指摘ですが、その主張
は歯牙にも掛けられず、法令違反がないとの決定が、わずか九行の判決理由に
表れていると、裁判に精通していない私は感じました。それから七日後の二月二
十六日、懲役が執行されますが、本書の存在で希望に満ちた気持ちは失いませ
んでした。

 
上告趣意書を記述する過程で読んだ刑事訴訟の本に、「裁判官に読んでもら
うためには、簡潔でページは少ない方がいい」 と勧めていました。私は悩みまし
たが、上告趣意書は私の最大の武器ですので、調べたすべてを網羅して書き上
げました。それが上告審に災いしたことは否めませんが、現在ではよかったと思っ
てます。
上告趣意書が完成して最高裁判所に提出する前に、八十五万字に及ぶ長文
を克服する方法を検討しました。裁判官は、弁護人上告趣意書は、かならず目を
通すと聞いていましたので、弁護人上告趣意書で、私の上告趣意書での主張の
核心を捕らえて立証してもらうことが、逃すことができない方法です。その結果とし
て、最高裁判所の五名の裁判官は、私の上告趣意書を精査すると考えたのです。
二名の国選弁護人が選任され、先生方に私の上告趣意書を渡して、主張の
核心となる事項を説明し、先生方の上告趣意書に反映してくれるよう強く願望し
たのですが、たぶん、私の上告趣意書を、精査することは行わなかったのでしょ
う、反映してもらえませんでした。これで原審での闘いは終わり、懲役を受ける身
となります。

 
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